人と栖と

小声で語る 小さな家と本と音楽のこと

燃える火の物語 宮沢賢治「よだかの星」

大変ご無沙汰しております。


読んだり書いたりするのに時間がかかるようになってしまい、かなりペースダウンしてまいりました。

それでも細々と朗読の音源をつくったり、今までつくったり書いたりしたものを朗読のものにしぼってnoteにまとめたりなどしておりました。

 

ここのところは、宮沢賢治よだかの星の朗読音源をつくっていました。

22分ほどのものです。

お時間のある時、どうしても眠れない夜などに聴いていただければ幸いです。

10代や20代の頃は、よだかの姿・境遇を自分に投影させていました。

おそらく、特に若い方はそういう読み方が多いのではないかと思います。

ところが今あらためて読み返してみると、過去にはあまり気に留めなかった、物語中随所に現れる「山焼けの火」が心に残ります。

よだかの心が激しく動き、何かを心に秘め一歩踏み出すと、いつもどこかの山が焼けているのです。

まるで心に起きる摩擦が引火しているかのようです。

そして、最後はよだか自身が青く燃える星になります。

「山焼けの赤い火」と「よだかの青い火」。

これは燃える火の物語ではないか、とさえ思います。

そんな、2つの燃える火を意識してこの音源をつくりました。


少し長くなってしまいますが、
批評家 村瀬学さんの文章を引用させてください。

清水真砂子が指摘していた「山焼けの火とは何か」という問いを私も考えておきたいと思う。その火は、ひとつの状況=ひとつの価値基準を越えようとするとき、その境界に発生する火のように私には感じられてきた。
(中略)
「境界」はそうやすやすとは越えられない。心の中ではなんとか越えられる境界だが、その境界を越える時には必ずや、価値観の矛盾=あつれき=まさつが起こる。そのまさつから火が吹くことは十分ありうるのである。

よだかが状況を越えて飛び上がるときに必ずといっていいほど見てしまう「山焼け」は、私には、まさにそういう「火」ではなかったかと思われるのである。

(「宮沢賢治」第9号1989年11月 洋々社)

自分も、いくつかそんな境界を越えてきたように思います。

勇気を出して一歩を踏み出したとき、ひょっとしたら残した足跡は燃えていたのかもしれません。

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