10代で出会って以来、「方丈記」とは長い付き合いになりました。
ずっと、鴨長明先輩の背中を見て、知らずに随分と影響を受けてきた気がします。
建築、特に住宅の設計を始めてからは、後半の方丈の庵について記された部分を繰り返し読みました。
建築家の書いたよくわからない本よりも、私にとっての住宅設計のバイブルは「方丈記」。
それは、人と家について考えるよすがであり、「小さな家」に向かうベクトルは、長明先輩が道標となったものでした。
ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と、
又かくのごとし。
格調高い名文からはじまる「方丈記」の前半は、当時の都を襲った5つの災厄についてのルポルタージュ。
後半は、そんな乱れた世の中で、恵まれた家系に生まれながら父親という後ろ盾を失い、身内の妨害もあって少しずつ没落し負け続けてゆく様、住む家の大きさが1/10、1/100という風に小さくなり、山中に方丈の庵を結ぶまでの経緯、それからそこでの、今風に言えばミニマリストのシンプルライフ讃歌へと続いていきます。
そこでは、都の名声や財産や、そんな執着から離れた自然のなかでの暮らしの素晴らしさが綴られています。
ただ、私が長明先輩を好きなのは、最後の方のくだりがあるからなんです。
この庵や、そこでの暮らしを愛している事、そもそも仏道修行をしつつも、こんなことを書いている事自体が執着であって、実のところ全然悟りきれていないんだと言うことを、苦笑いするような感じで記し、筆を置いているんです。
そして心の奥では、自分の芸術を世間に認めてもらいたいという気持ちがどこかに残っていたのではないかと思います。
それがいいんです。
そんな中途半端にしか悟れない、見方によっては、ちょっと負け惜しみととられなくもないようなものを綴っている長明先輩の弱さ、人間らしさこそが、彼と「方丈記」の魅力であり、およそ800年もの長きにわたり愛され、読みつがれている所以なのだと思います。
先輩が方丈記を記した年齢に、私も近づいてきました。
機が熟したら、いつかは自分なりの「方丈記」を書きたいと思っています。
その前に、まずは方丈記の朗読音源をつくろうと思っているのですが、長いのでとりあえず冒頭の部分だけ録音しました。
背景の音楽として、ことばのひとつひとつを丁寧に音に変えていきました。
長い道のりですが、「方丈記」を声と音で表現することもライフワークの一つになりそうです。