人と栖と

小声で語る 小さな家と本と音楽のこと

人に頼って明るく自立する

年齢は一の位を切り捨てるルール(笑)。

この姑息な「丸め」をもってしても、あと数年で大台に乗ります。

少しずつできないことも増えてきました。

 

しぶとく続けているピアノの練習も、楽譜を読むのがやや困難に。

それで、奥様に一小節ずつ押さえる鍵盤を教えてもらったりしています。

スローになりましたが、急ぐ旅でもないので。

運転を代わってもらうことも増えてきました。

 

この頃、何となくこれが心地良くなってきました。

何が何でも「自分で何とかしよう」と思っていた頃より、楽なのはもちろんですが、かえって自分の足で立っている実感があるのです。

上手く説明できないのですが、人どうしのエネルギーのやり取りの輪から離れているのは、自立というより孤立している感じがしていたんですよね。

 

10年以上前に読んだ、安冨歩さん「生きる技法」という本の影響があるのかもしれません。

帯に書かれている言葉が、その本の内容を一言で表現しています。

「助けてください」と言えたとき、

人は自立している

逆説的なこの言葉の意味が、今はよくわかります。

もう少し正確に言えば、

より多くの人に

「助けてください」と言えた時、

人はより自立している。

ということだと思います。

誰にも依存していないつもりでも、人は一人では生きていけないので、僅かに依存した少数の人に、人は隷属してしまいます。

国際的な貿易や安全保障などにも通じますね。

 

だから、これから、より多くの人に助けられたり、助けたりしながら楽しく自立していこうと思います。

↓本の帯

9年前に他界した兄の、子どもの頃のキャッチフレーズは

「人に頼って明るく生きる」

しっかりものの次男(私)は若干軽蔑(笑)していましたが、

案外、慧眼の持ち主だったのかもしれません。

ゼームス坂と智恵子さんのレモン

30代のおよそ10年間は東京の大井町京浜東北線)に住んでいました。

南品川のゼームス坂沿いにあるマンション。

 

何だか失われた10年のような期間でした。

元々ぎりぎりバブル世代なのですが、30歳手前でキャリアをリセットして、20代を無かったことにしてしまったので、結果的にロスジェネ世代になってしまいました。

 

勢いで、勤めていた放送局を辞めて建築の学校に入り直し、手当たり次第に資格をとったものの、世間はとんでもない不景気。

新卒でない者を採用する企業などなく、伝手で入ったベンチャー企業は今でいうブラック企業でした。

何故か会長に目をかけてもらい、設計者として順調に仕事をしていたものの、上層部の近くにいたからか、早々にその怪しさを察知してしまいました。

 

この人たち計画倒産しようとしてる?。

というか事業自体が詐欺かも。

そして一年も経たずに脱出。

逃げるときは、躊躇せず全速力で逃げます(笑)。

 

元同僚に聞くと、その2か月後には給料が不払いになり、被害者の会みたいなものが結成されていました。

後日報道で知ったのは、某有名芸能人の関わる未公開株をめぐる事件の舞台に、その会社がなっていたということ。

人の出入りを観察していると、何となくわかりますね。

 

失業保険をいただいたり、ハローワークの列に並んで職を探したり、そこで氷のような対応をされたり、ほんの少しだけ社会の歪みや痛みを知った頃でした。

 

仕方なくフリーターとして設計やデザインを細々とやっていたある日、仕事の依頼があって指定された事務所にのこのこと出かけました。

事務所に入った瞬間チラ見した、奥の部屋にあったものを見逃しませんでしたよ。

一応挨拶をして話を聞いていると、案の定、そこは某宗教団体の関連会社。

「仕事を定期的にあげますから、まずは○○を勉強していただいて・・・。そのためにもこの〇〇を購読していただいて・・・。」

担当者が横を向いた隙に、渡していた名詞をスーっと引き寄せ、それを掴むと後は全速力で逃げました(笑)。

 

何だか格好悪く、情けない日々。

でも、下を向いてとぼとぼと歩いていた、あの頃の自分を嫌いにはなれません。

 

暮らしていたゼームス坂のマンションから歩いて1分のところに、「レモン哀歌」の歌碑がありました。

高村光太郎さん「レモン哀歌」ですね。

そこは、智恵子さんが入院していたゼームス坂病院がかつて建っていた場所。

歌碑の前には、いつもレモンが置いてありました。

 

あの情けない30代を思う時、あのレモンも同時に思い出されます。

思い出は、酸っぱいというより「しょっぱい」かな。

 

「レモン哀歌」は30代の自分と苦労をかけた奥様の、何かを鎮めるためのうたでもあります。

10年間、智恵子さんの見た同じ空を、いつも眺めていました。

私達の本籍は、思い出の南品川ゼームス坂に残したまま。

当時は生まれていなかった静岡生まれの娘も道連れです(笑)。

 

朗読は奥様。

それにあわせて曲をつくり、うっすらとかぶせました。

youtu.be

「うたのおにいさん」の「本当は・・・」を、ずっと考えていた

(お金をとる)放送局に勤めていた20代。

自分には不向きな世界でストレスだらけだったけれど、ただ一つの癒しのお仕事、

おかあさんといっしょ

子ども達の笑顔に、自分の汚れた心が洗われていくようでした。

 

あまりそんな機会は無かったのですが、一度だけ、出演者、スタッフ揃っての打ち上げに参加しました。

たまたま「うたのおにいさん」の近くに座りました。

どのくらい直接お話できたのか覚えていないのですが、(大きな声が出ないので宴会では「負けて」しまうのです)

おにいさんの語った一言を印象深く記憶しています。

 

「本当は・・・」

少し照れていました。

「演歌歌手になりたかったんですよ・・・。」

 

そのギャップに驚きました。

なりたかったというより、一度演歌歌手としてデビューされていたとのことでした。

その後、オーディションを受けて「うたのおにいさん」になったそうです。

 

私には「おかあさんといっしょ」の「うたのおにいさん」は天職のようにみえました。
輝いていました。

実際、その後「うたのおねえさん」とともに大人気になり、

ある年齢以上の人は誰でも口ずさめる大ヒット曲も生まれ、

紅白にも出場しました。

本当は演歌であのステージに立ちたかったのかな。

 

私は勢いでそこを辞めてしまったので、その後お会いする機会はありませんでしたが、何となくおにいさんの「本当は・・・」がずっと気にかかっていました。

 

その後十年以上を経て、おにいさんが大変重い人生を背負ったことを報道で知りました。

それでも、おにいさんはそのお人柄のまま、誠実に真摯にその事実に向き合い、数年後また歌の世界に戻られました。

変わらず、その歌で、多くの人に愛されているようです。

歌は演歌ではありません。

 

おにいさんの「本当」はシンプルに、「歌う」ことだったんだと思います。

「本当」は歌で人の心を温めること。

 

おにいさんの言葉を通じて、ずっと自分の「本当」のことを考えていました。

 

子どもの頃から抱えていた眼のトラブルが悪化して、図面を描くことが困難になってしまいました。

本当は、図面をバリバリと描いて

本当は、自他ともに認める建築家になって

本当は、世界中を駆けまわって

本当は、後世に残る建築を残したかった。

リハビリ次第ですが、少し難しそうです。

 

ただ、おにいさんのはにかんだ笑顔を思い出すたび、自分の本当って本当なんだろうかって考えます。

もし、おにいさんの「本当」が「演歌歌手」ではなく、「歌う」ことだったなら・・・。

自分の「本当」は、ただ

「美しい空間をつくること」、なのでは。

もう建築に拘る必要はないのかも。

空間を満たすものは、音や光、香りや詩であってもいい。

本当は、何か美しいものを残したい。

多くの人の目や耳に触れなくても構わない。

誰にも知られなくていいから、

本当は、美しいものをひっそりと、この世界に残して、ここを去りたい。

 

図面を描けない自分に、何か月も落ち込んだままでいたけれど、

そろそろ切り替えないと。

もう顔を上げよう。

 

途中から新年(遅)の抱負になってしまいました。

公立高校志願状況と「競争」についての娘への(たぶん渡さない)手紙

公立高校の志願状況が発表されました。

志望校の倍率は、およそ1.2倍。

それが高いのか低いのか、よくわかりません。

 

倍率とか、ときには競争率なんていうけれど、そもそもその表現自体が不正確なので、それが2倍だろうと3倍だろうと構いません。

抽選で入学者を選ぶのなら、「倍率」は重要です。

しかし、入試は「くじ」ではありません。

必要な点数を目標に定めて、そこを1点でも上回るように地道に愚直に準備するのが受験勉強。

だから、倍率も関係ないし、ましてや他の子との「競争」なんかでは、絶対にありません。

 

対峙するのは自分自身。

それから目標をクリアする。

それだけです。

 

競争を煽ることで、誰かが利益ー金銭や地位を得ていくシステム。

そんな、どうしようもないものがある事は早晩理解すると思います。

しかし今はただ、煽りに踊らされず、これは「競争ではない」ということだけ、強く思っていてください。

 

教育行政に「熱心」だという首長の主張を聞いてみようと、ある議会を傍聴したことがあります。

今でも、そのときのメモが残っています。

読み返すと愕然とします。

首都圏とこの田舎を比較した、勇ましいけれど卑屈な言葉が続いたあと、

「これから恐ろしい競争社会がやって来ます。ですから、その競争に勝ち抜いていける子ども達を育てなければいけません。」

 

・・・・・いやいやいや、ちょっと待って、

その「恐ろしい競争」をしなくていい社会をつくるのが大人の役目なのでは。

その「競争」に敗れて途方に暮れる子や、その「競争」に参加さえできない子のことを思うのが大人の役目なのでは。

発想の柔軟な子ども達に教えを乞うのは大人の方なのでは。

声をあげそうになったけれど、つまみ出されそうなので我慢しました。

 

もちろん、目標に向かって努力すること、それから、互いの切磋琢磨は大切です。

仲間同士、そういう意味で競いあい高めあっていくのは素晴らしいこと。

けれど、自分が受かれば、その分誰かが落ちる、

そこを勝ち抜いていく、そんな弱肉強食の世界だとは決して思わないでください。

人間の世界は思っているほど捨てたものではありません。

 

一緒に受験する友達はみんな合格するように。

試験会場で隣になった子や同じ会場にいる子たちは、四月には同級生になる仲間。

生涯の友もその中にいるかもしれません。

ここにいる子、全員揃って合格しよう。

そう願いながら試験に臨んでください。

きれいごとを言っているのではありません。

本当に強い人はそういう発想をするものです。

最後の授業参観と成長のドア

今日は最後の授業参観。

幼稚園の頃から中三までの12年間。

たくさんの思い出がぐるぐる巡って、廊下で倒れそうになりました。

 

様々なことがひとつずつ静かに終わっていきます。

何か新しく始めないと、このまま何もかも終わってしまいそう。

 

この土地にこの家を建てたのは、娘の小中学校に近かったから。

通学路になっている前の道には、いつも登下校の子どもたちの賑やかな声が響いています。

その渦に紛れて娘も出かけていきました。

まもなくそこから離れます。

この家の役目も、もう終わろうとしています。

自分で設計して、できる範囲で施工もした家だけど、不思議と終の棲家には思えませんでした。

いつかここを離れることの予感をはらんでいたのかも。

私達はドリフターなので、また旅に出るのかもしれません。

 

まあ、それでも、感傷に浸っているのは(父)親だけで、子どもの方は諸々なぎ倒して前に進んでいきます。

 

真島 昌利さんの名曲「夏が来て僕等」の最後の一行。

夏が来て僕等 成長のドアを足であけた

これでいいんですね。

ただ鳥が啼いている

ちいさな可愛らしいメジロが庭にやってくるようになりました。

ローズマリーをつついているようです。

そろそろ、お隣の庭でウグイスが啼き始める時期です。

いつもうちの庭ではなく、お隣です(笑)。

格が違うのか。

 

娘が高校受験の追い込みで、歴史年号の暗記などしています。

同級生の男子も、語呂合わせを一生懸命声に出して覚えているようです。

なくよ ウグイス ホトトギス

・・・ただの鳥の楽園になっています(笑)。

この年頃に覚えたものは一生覚えているものなので、なんとか修正されますように。

 

新しい史料の発見や解釈の変更で年号も変わっていますね。

鎌倉幕府とか。

それに年号の語呂合わせも、自分の頃には無かったようなものもあります。

私のお気に入りは、

満州事変(1931年)


満州事変 日本が番 うそくさい

 

公立入試まであと少し。

気楽に頑張れ。

内申書で悩んだり悩まなかったり

娘が受験生です。

私立が終わり、これから公立。

反抗期の女子中学生で受験生。

三重苦です。

 

高校受験には内申書内申点というものがありますね。

「そんなもの気にするな」って事あるごとに言い続けてきたんですが、それでも、ずっとどこかで気にかかりながら学校生活を送っていたようです。

子どもたちは委縮しますよ。

何だか気の毒でした。

内申書はできてしまっているので、もういいのですが・・・。

 

今の学校は自分の頃と違って、先生方と生徒は驚くほど仲が良く、日常は穏やかなようです。

でも・・・どこか、もやもやとしたものが残ります

生徒からしたら、自分の大切な何かしらを質にとられているようなものだし、波風はたてられませんね。

この微妙な空気を抱えたまま、大人になっていったら社会はどうなってしまうんだろう、・・・というか、もはや、その結果が今の社会ということなのかな。

 

内申書は戦前からあったようですし、試験当日の一発勝負に比重がかかりすぎないようにする趣旨はよくわかるのですが・・・。

 

自分の頃も、もちろん内申書はありました

まったく気にもかけませんでした。

担任が差別的な、人を侮辱するような発言をした時には、クラス全員で授業をボイコットしたりしました。

トイレや何かにみんなで立て籠もって。

女子も含めて全員!。

体育祭や合唱コンクールでは全然だめなのに、そういう時だけ妙な団結力を発揮するクラス(笑)。

担任が謝罪し、30分程遅れて授業は始まりました。

首謀者は私でしたが、何のペナルティーもありませんでした。

あったのかな。

全く覚えていません。

夜、うちに誰か来たような・・・。

あれは、また別の件か(笑)。

 

内申書に何を書かれたのか書かれなかったのか、何もわかりません。

当時は中学生らしい正義の方が大切でした。

本気でぶつかり合わないと、信頼関係は築けませんでした。

それで、良かったと思っています。

そういう気質は後々、多くの面倒事を抱え込むことになりましたが・・・。

 

話がそれました。

本日私が申し上げたいことは、今の学校に流れている、息苦しさをオブラートで包んだような穏やかな空気が少し怖いなということです。

子どもたちが可哀そうです。

それに加えて、卒業を間近に控えた、心の揺れる繊細な季節が受験一色になってしまっている事も本当に残念です。

今に始まったことではないけれど。

だからこそ、文化的社会的な、大きな損失になっているのではないかとさえ思います。

失った季節が欠落したまま、それを是として、あるいはその喪失感を認めたくない「優秀」な人たちが、この国を運営しているからこその息苦しさなのかも。

 

入試、せめて季節の良い、インフルエンザの心配も少ない秋にやってしまえばいいのに。

言ってどうこうなる事でもありませんが。

すみません、ちょっとぼやいてしまいました。

早春のソネット 浅き春に寄せて

立春ですね。

うちには受験生がいることもあり、春はまだまだ先。

それでも時折空気が温む瞬間があって、季節が進んでいることを感じます。

 

早春です。

年齢を重ねるごとに好きな季節が変わってきました。

ずっと若い頃は夏。

花粉症になってからは、春が苦手に。

秋はいつでも大好き。

この頃、この早春を意識するようになりました。

花粉が本格的に舞う前のわずかな、凪いでいるような、この繊細な季節を大切に過ごしたいと思います。

 

ただ、のんきに春の気配なんて味わっていられるのも、温暖な静岡だからかもしれません。

北陸の被災地と静岡の気温の、5℃くらいでも交換出来たらいいのに。

 

立原道造さんの美しい早春の詩、「浅き春に寄せて」を奥様に朗読してもらいました。

4行、4行、3行、3行の14行詩。

ソネットですね。

韻をふんでいないので、正式なソネットではないという話もありますが、詳しいことはよくわかりません。

その清冽な水のような透明感が、ただただ好きです。

浅き春に寄せて 

   立原道造

 

今は 二月 たつたそれだけ

あたりには もう春がきこえてゐる

だけれども たつたそれだけ

昔むかしの 約束はもうのこらない

 

今は 二月 たつた一度だけ

夢のなかに ささやいて ひとはゐない

だけれども たつた一度だけ

そのひとは 私のために ほほゑんだ

 

さう! 花は またひらくであらう

さうして鳥は かはらずに啼いて

人びとは春のなかに笑みかはすであらう

 

今は 二月 雪の面につづいた

私の みだれた足跡……それだけ

たつたそれだけ――私には……

言葉のリズムが歌詞のようです。

音をあてやすい、どこまでも優しい詩。

言葉の区切りにあわせて小節を決めて、内容にあわせてコードや音を選んで、弾けもしないピアノで曲をつくりました。

「こいだば まんず うたっここへるに えぇな。」なんて、秋田弁でぼそぼそ言いながら。

静岡は雪が降らないので、雪のことを考えている時には、第二の故郷秋田で暮らしていた頃の自分に戻っています。

youtu.be本歌取りというわけではないのですが、早春の名曲ランキング第1位(自分調べ)「赤いスイートピー」の冒頭メロディーの一部を、途中うっすらと練り込みました。

もう一度逢いたい

昨年、旅先でふらっと寄った八代亜紀さんの作品展。

油絵も素敵だったのですが、書道の迫力にも感激しました。

特に会場の奥に展示されていた「舟唄」。

八代亜紀さん以外、他の誰にも書くことのできない「舟唄」。

唄声が聞こえてくるような唯一無二の存在感を放っていました。

写真を撮れなかったので眼に焼き付けて帰ってきました。

帰宅してからは、すっかり八代亜紀さんブームに。

今度、BLUENOTEのステージがあったら絶対行きたい、なんて話していたら病気療養のニュースが。

それから、あっという間に旅立ってしまわれました。

 

憧れの先輩方の旅立ちの報に触れることが増えてきました。

年齢的には仕方のないことかもしれませんが、寂しいです。

 

私もハスキーなのでハスキーの大先輩。

亜紀姐さんの数ある名曲・名唱の中で大好きなのは「もう一度逢いたい」。

ハチロクのロッカバラード。

詩・曲・アレンジ、そしてもちろん歌唱。

全てが完璧な「正調ニッポンのブルース」ですね。

youtu.be若い頃勤めていた(お金をとる)放送局では、たくさんの演歌歌手の皆様とお会いすることができたのですが、八代亜紀さんにはその機会がありませんでした。

ですから、「もう一度逢いたい」ではなくて「一度でいいからお会いしたかった」です。

 

冠二郎さんも旅立たれましたね。

まだ新人で、ろくに仕事もできない私に、本当に気さくに優しく接してくださいました。

時々、その優しさを思い出します。

冠二郎さんは本当に優しかった・・・」なんて、ご飯を食べながら話していた2日後の訃報でした。

 

本当に寂しいことが増えてきました。

昨年、ジェフベックの訃報に接したときも思ったのですが、もともと会うことは叶わないんだから、どこかで生きていると思うことにしようと思います。

雨の国の屋根の家

その敷地にどんな屋根を浮かべたいか。

そこから考えます。

堅牢かつ軽量で美しい屋根。

形状・素材・性能・軒の出。

 

もし2階建であれば、その屋根の荷重を支える2階の設計をします。

それから、屋根と2階の荷重を支える1階の設計をします。

その後、そのすべてを支える基礎の設計です。

上から下に向かって設計します。

もちろん平面プランも頭の隅に置きつつですが。

それでも、屋根とそれを支える構造を最優先します。

 

雨の国の家は「屋根の家」

シドニーのオペラハウスで有名な建築家ヨーン・ウッツォンは、日本建築のスケッチで、基壇とその上に浮かぶ屋根だけを描きました。

その慧眼で本質を見事に捉えています。

と言いつつ、もちろん陸屋根に屋上防水が適している場合だってあります。

ケースバイケースですね。

あと、好みですね。

 

軒の深い屋根は傘。

陸屋根と防水処置は雨合羽。

好みです。

自分は傘が好きですが。

あまりにも美しい、わずか2行の珠玉。

三好達治「雪」

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。

次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

この詩を奥様に朗読してもらいました。

「太郎の屋根」「次郎の屋根」という表現が胸を打ちます。

私にとって、「雪」の詩でもあり、子どもたちを優しく守る「屋根」の詩でもあります。

朗読すると20秒たらず。

音楽をつけるのにはあまりに短いのですが、つくってみました。

太郎に2小節、次郎に2小節(笑)

それぞれ割り当てました。

youtu.be

風信子の家 4.3坪の夢

自宅は経済の事情で小さな平屋になるようで、設計をしていた10年ほど前、古今東西の「小さな家」研究を随分としました。

同時代のもの、特に戦後の日本は物資の不足や土地の狭さなどもあり、それは一つのジャンルのようなものを形成していて、有名建築家の実験的な「小さな家の系譜」のようなものが存在しています。

ただ、建築家特有の難しい理屈に馴染むことができず、次第に、もっと「本質だけ」でできているような古典作品に範を求めるようになっていきました。

 

古くは(古すぎますが)

鴨長明先輩の「方丈の庵」

それから、

HDソロー「森の小屋」

ル・コルビュジエカップマルタンの休暇小屋」

そして、

立原道造さんの「ヒアシンスハウス」

 

特に、「ヒアシンスハウス」のスケッチには心を奪われました。

まだ実作の無い、若い建築家の夢の結晶。

立原道造さん(1914-1939)

建築家で詩人。

東京帝国大学工学部建築学科では丹下健三さんのひとつ上の学年。

丹下さんも憧れの眼差しを注ぐほどの才能だったようです。

在学中に辰野賞を3度受賞。

一方、詩人としても、中原中也賞の第1回受賞者。

私にとっては、建築家・詩人というより、「ものをつくる人」としての理想の存在です。

 

病のため24歳で夭逝してしまったため、「ヒアシンスハウス」は、実際に建築されることはなかったのですが、現在はスケッチをもとに、さいたま市別所沼公園に再現されています。

 この動画でわかりやすく紹介されています。

youtu.be

僅か4.3坪のワンルーム

(おそらく恋人と過ごす)週末住居の想定ということで、キッチンと浴室がありません。

 

我が家は24坪ありますが、それでも平屋のワンルームなので、空間の雰囲気は近いものがあります。

自分にとっての「ヒアシンスハウス」になっていればいいなと思います。

 

最近、立原道造さんの詩をよく読んでいます。

「ヒアシンスハウス」のスケッチを眺めながら、それらを読むと、より心に響くものがあります。

生前は実作を建てる機会に恵まれなかったけれども、その世界は詩と共に永遠のものになりました。

 

ここのところ、半年で壊してしまうハリボテを設計して上気している「建築家」に辟易していたのと、以前は多少なりとも彼らに憧れていた己の節穴ぶりに落ち込んでいたのですが、そんな自分への「おくすり」になっています。

 

どこまでも透明で美しい詩

「夢みたものは・・・・」

奥様に朗読してもらって、繰り返し聴いていました。

夢見たものは‥‥

立原道造

 

夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

 

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる

 

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

 

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

この詩には木下牧子さんによる、大変美しい曲がつけられています。

youtu.be・・・と、自分で極限までハードルをあげつつ。

私もこの詩にあてて、曲をつくってみました。

朗読を聴いている時に自分の中に流れていた音をなんとか引っ張り出して、弾けもしないピアノで徒につくったものです。

youtu.be

イツモシヅカニワラッテヰル

年老いた両親は日ごと子どもにかえっていきます。

毎週、娘の顔を見せに行きますが、ただいつも静かに笑って、こちらの体の心配なんかしています。

もとは、二人ともなかなか厳しい人で、私とは衝突続きでした。

「二度と敷居をまたぐな」とか「葬式にも来るな」とか、何度も言われましたが、
今は「いらっしゃい」なんて言って、ニコニコしています。

 

自分の経験から、こういった状態になったとき、さらに厳しい性格になることを覚悟していたのですが、拍子抜けするほど穏やかです。

 

父は元数学の教師らしく娘の数学の心配ばかりしていて、タンジェントがどうとかずっと言っています。

整理整頓好きで几帳面な母は、カレンダーの数字が綺麗に順番に並んでいることをしきりに感心したり、先月と似ていてややこしいなどと困惑していたりします。

長女と長男を立て続けに失ったり、苦労続きだったから、この方が幸せなのかな、よくできてるな、なんて思ったりします。

恩寵。

こんな日々が続けばいいなと思います。

 

自分も、何かと戦ったりするのは十分やったので、もう勘弁してもらって、これからは「いつも静かに笑っている人」になりたい。

そう思う、年の初めです。

 

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。

若い頃にはピンとこなかったけれど、今は心に染みます。

私もサウイフモノになりたい。

 

東北弁ネイティブの奥様に「雨ニモマケズ」を朗読してもらい、先日作った曲をリサイクルして、うっすらかぶせました。

youtu.be

 

悲愴感に沈んでしまわないように

放っておいたらどこまでも沈んでしまいそうな時には、
古の諸先輩方のことば達に耳を傾けます。

どこか疼いたとしても、いつかは思い出に変わる時が来るのかもと思えれば、
なんとかやっていけます。

百人一首 68番歌

心にも

あらでうき世に

ながらへば

恋しかるべき

夜半の月かな

   三条院

【現代語訳】

心ならずも

このはかない現世で

生きながらえていたなら

きっと恋しく思い出されるに違いない

この夜更けの月を

 

藤原道長のハラスメントや眼病に苦しみながら眺めた月。

三条院がどんな気持ちで、その冬の月を眺めていたのかを考えると胸が苦しくなります。

ただ、寂寥のなかにも生きる望みを感じられるのが、このうたの救いです。

 

悲しみの中に小さな光が灯る救済のうた。

こんなに悲しい年の初めの、自分へのおくすりです。

 

悲愴感に沈んでしまわないように、
「『悲愴』(ベートーヴェン  ピアノソナタ第8番 第2楽章)になりそうでならない曲」をつくって、このうたをのせてみました。

オマージュなんていうには稚拙すぎますので、
パロディのようなものです。

今日、突貫工事でつくったので雑なものですが、
令和6年(昭和99年!)の年初の心象スケッチとして残しておきたいと思います。

 

朗読は奥様にお願いしました。

英語部分は「音読さん」の読み上げです。

youtu.be

 

 

うちの二戒は大方正しかったと思った昭和98年の大晦日

昨年からサンタクロースも来なくなり、
娘が受験生ということもあって、
気がついたらクリスマスも過ぎ、大晦日になっていました。

独学派だった娘も塾の冬期講習に通うことになり、
塾の送り迎えという受験生の親らしいお勤めを楽しんでいます。

元日は朝から夜まで講義があるらしく、
昭和(明日から昭和99年です)みたいです。

それも良い思い出になるのかなと思っています。

やりたいことを思い切りやって
悔いのない10代を過ごしてほしいです。

 

小さな頃は、将来こんなことをやってくれたら、
なんて少しは思ったりしましたが、
早いうちにそれは親のエゴだと気づき、
庭の木が自由に枝を伸ばすように、
その都度興味のあることに全力で取り組んでくれれば、
それが一番だなと思うようになりました。

見守るだけです。

 

ただ2点だけ、小学生の頃から言い聞かせ続けてきたことがあります。

権力(権威)

芸能界

この2つには決して近づいてはいけない。

うちの二戒です。

娘も良くわかっているようです。

大きなポイントを外さなければ将来も安心でしょう。

 

今年はそれが大方正しかったことを実感する一年でした。
時代の変わり目ですね。
ようやく昭和も終わる感じです。

子ども達や弱い人が泣かない社会に、
少しづつでも変わっていけばいいなと思います。

 

眼の具合がよくなくて、投稿のペースが落ちてきましたが、
マイペースで続けていこうと思います。
今後ともよろしくお願いします。

皆様、良いお年をお迎えください。

その大物感が欲しい

「いってきます」(少し不機嫌)

「ただいま」(少し不機嫌)

娘のそんな声も、あと数年。

大切に聞かないと、なんて思います。

 

先日の朝、いつものように「いってきます」(少し不機嫌)が聞こえたので振り返ると、娘がTシャツに短パン姿で、鞄を背負って玄関を出ようとしています。

「えっ、・・・ちょっ、ちょっと・・・」

「あ、制服着るの忘れてた・・・」

 

荷物を準備して、玄関に全部きれいに揃えて、そのまま手ぶらで出かけたことは何度かありますが、制服を着ないで出かけようとしたのは初です。

なかなかの大物感をまとっております(笑)。

 

私は自分で嫌になるくらい、とにかく慎重。

大きな失敗はしない代わりに、何だかつまらない人のような気がしていました。

この小物感は今更ぬぐえないかもしれませんが、これからは娘のように「雑」に生きたいなと思う年の瀬です。

「雑」に生きることを新年の抱負にする人はいないでしょうが、娘を師と仰ぎ、来年は気楽にやりたいと思います。

 

何十年も抱えてきた面倒な「責任感」をそろそろ捨てよう。

今までお疲れ様。

何かあっても、そのうち誰かが何とかしてくれる。

もう、それでいいや。