石川啄木の短歌「十五の心」(「不来方の」)の朗読音源を制作していました。
この短歌は、第一歌集『一握の砂』に収められた、三行・分かち書きの作品です。
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
十五歳という微妙な年齢に宿る、透明で繊細な感情を捉えた名歌ですね。
十代の少年が抱く漠然とした不安、孤独、焦燥、そして夢や可能性。
そうした複雑な思いが、広大な空へと吸い込まれていく。
そんな情景が、印象的に描かれています。
短歌や俳句のようにタイトルのないものをどう呼んだらいいのか、いつも迷います。
この歌も、初句「不来方の」で呼ぶのが一般的かもしれませんが、私には「十五の心」という呼び方の方がしっくりきます。
尾崎豊の「15の夜」と、どうしても重ねてしまうからです。
「十五の心」と「15の夜」。
石川啄木と尾崎豊。
ともに、閉塞的な世界から抜け出そうとした若者たち。
啄木が憧れた空。
尾崎が見つめた都会の夜に宿る自由。
その視線の先にあるものは、どこかでつながっているように感じます。
実はこの詩的な共鳴には、尾崎のプロデューサー・須藤晃氏の文学的素養が大きく関わっていたと言われています。
<インタビュー>須藤晃 ~15にまつわる話 Vol.4「15の夜」~ | Special | Billboard JAPAN
須藤氏は啄木とこの短歌に深く共感していて、「十五」という数字にもこだわりを持っていたようです。
もともと尾崎がこの曲につけていたタイトルは、なんと「無免許」だったそうですが、須藤氏の提案で「15の夜」に変わったのです(GJ)。
尾崎もその提案に「十五夜みたいですね」と応じたとされ、啄木の詩情が、この名曲に息づくこととなりました。
このことからも、啄木の短歌が尾崎の創作に影響を与えたことは間違いないようですね。
「十五歳」という、未熟で不安定な時期。
自分と世界の距離を測りかねるような感情。
尾崎はそれらを、啄木の表現を媒介にして再確認し、自らの歌に昇華させたのだと思います。
さらに、「卒業」の冒頭の歌詞、
校舎の影
芝生の上
すいこまれる空
この一節も、啄木の
お城の草に寝ころびて
空に吸われし
と、見事に響き合っています。
芝生、空、そして「すいこまれる」という言葉。
啄木の世界を80年後、バブル前夜の十代の感性に置き換えた光景です。
そして、啄木と尾崎にはもう一つ、共通点があります。
どちらも26歳という若さでこの世を去ったこと。
啄木は1912年、肺結核で夭折。
尾崎は1992年、急性肺水腫により急逝。
どちらも母親の死の直後、そして東京・文京区で最期を迎えたという奇妙な一致もあります。
こうした偶然の重なりに、私は二人の間に不思議な「縁」のようなものを感じずにはいられません。
26年という短い生涯の中で、
啄木は「十五の心」に青春の儚さを刻み、
尾崎は「15の夜」や「卒業」に十代の孤独と希望を焼きつけました。
そこには、生き急ぐような魂の叫びが、時代を超えて共鳴しているように思えます。
十九歳の頃、私も不来方城跡(盛岡城跡)を訪れ、空を見上げたことがあります。
(寝転んでみたかったけれど、恥ずかしくてできませんでした。)
それでも、あのとき「十九の心」もまた、確かに空へと吸い込まれていったように思います。
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【コーラスパートはVoiSonaを使用して制作しました。】
使用ボイスライブラリ:知声
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