30代のおよそ10年間は東京の大井町(京浜東北線)に住んでいました。
南品川のゼームス坂沿いにあるマンション。
何だか失われた10年のような期間でした。
元々ぎりぎりバブル世代なのですが、30歳手前でキャリアをリセットして、20代を無かったことにしてしまったので、結果的にロスジェネ世代になってしまいました。
勢いで、勤めていた放送局を辞めて建築の学校に入り直し、手当たり次第に資格をとったものの、世間はとんでもない不景気。
新卒でない者を採用する企業などなく、伝手で入ったベンチャー企業は今でいうブラック企業でした。
何故か会長に目をかけてもらい、設計者として順調に仕事をしていたものの、上層部の近くにいたからか、早々にその怪しさを察知してしまいました。
この人たち計画倒産しようとしてる?。
というか事業自体が詐欺かも。
そして一年も経たずに脱出。
逃げるときは、躊躇せず全速力で逃げます(笑)。
元同僚に聞くと、その2か月後には給料が不払いになり、被害者の会みたいなものが結成されていました。
後日報道で知ったのは、某有名芸能人の関わる未公開株をめぐる事件の舞台に、その会社がなっていたということ。
人の出入りを観察していると、何となくわかりますね。
失業保険をいただいたり、ハローワークの列に並んで職を探したり、そこで氷のような対応をされたり、ほんの少しだけ社会の歪みや痛みを知った頃でした。
仕方なくフリーターとして設計やデザインを細々とやっていたある日、仕事の依頼があって指定された事務所にのこのこと出かけました。
事務所に入った瞬間チラ見した、奥の部屋にあったものを見逃しませんでしたよ。
一応挨拶をして話を聞いていると、案の定、そこは某宗教団体の関連会社。
「仕事を定期的にあげますから、まずは○○を勉強していただいて・・・。そのためにもこの〇〇を購読していただいて・・・。」
担当者が横を向いた隙に、渡していた名詞をスーっと引き寄せ、それを掴むと後は全速力で逃げました(笑)。
何だか格好悪く、情けない日々。
でも、下を向いてとぼとぼと歩いていた、あの頃の自分を嫌いにはなれません。
暮らしていたゼームス坂のマンションから歩いて1分のところに、「レモン哀歌」の歌碑がありました。
高村光太郎さんの「レモン哀歌」ですね。
そこは、智恵子さんが入院していたゼームス坂病院がかつて建っていた場所。
歌碑の前には、いつもレモンが置いてありました。
あの情けない30代を思う時、あのレモンも同時に思い出されます。
思い出は、酸っぱいというより「しょっぱい」かな。
「レモン哀歌」は30代の自分と苦労をかけた奥様の、何かを鎮めるためのうたでもあります。
10年間、智恵子さんの見た同じ空を、いつも眺めていました。
私達の本籍は、思い出の南品川ゼームス坂に残したまま。
当時は生まれていなかった静岡生まれの娘も道連れです(笑)。
朗読は奥様。
それにあわせて曲をつくり、うっすらとかぶせました。