人と栖と

小声で語る 小さな家と本と音楽のこと

吉田五十八さん晩年の集大成  東山旧岸邸

同じ県内なのに行ったことのなかった、東山旧岸邸静岡県御殿場市)に先日行ってきました。

吉田五十八(いそや)さん、晩年の集大成です。

東山旧岸邸は、首相を務めた岸信介の自邸として
1969年に建てられ、現在は登録有形文化財に指定されています。
伝統的な数寄屋建築の美と、
現代的な住まいとしての機能の両立を目指したこの邸宅は
建築家・吉田五十八の晩年の作品であり、
氏の建築美学の到達点のひとつといえます。
   

  東山旧岸邸 パンフレットより

まず、何より敷地が素晴らしいです。

門からただならぬ雰囲気が漂っています。

建築の半分は、その敷地を含めた環境だなとあらためて思います。

いや、もしかしたら8割くらい環境かもしれません。

それほど敷地の力は大きく、残った2割の部分に建築家は力を尽くし、

そこに本当の力が尽くせたら、このような傑作が生まれるのだと思います。

 

眼の具合が悪く、一度に長い文を書けなくなってきました。

twitterみたいな投稿になっていきそうですが、今後ともよろしくお願いします。

 

この日のことは、またあらためて少しずつ書ければと思っています。

 

(たぶん)続く

 

お父さん(太田胃散の創業者)が58歳の時の子どもなので五十八さん、というエピソードが好きです。

光が円柱を撫でるとき

季節ごと、日ごと、折々様々な光が家にやってきます。

 

信じられないほどの強烈な朝日が差し込む東の窓。

 

天窓から入り込んで、ロフトの床で跳ね返り、

家じゅうを駆けまわる光。

 

デッキに反射して、それが化粧天井を照らし、

その反射がまた床を照らし・・・、

それを繰り返し

奥の方までほんのり照らすバウンスライト。

 

今の時期、一番好きなのは日没前の

西日がゆっくりと円柱を撫でてゆく時間です。

 

光の強さによっては削っていくようにも見えます。

 

φ150の磨き丸太。

建築は性能や数値だけでは語れません。

 

パルテノン神殿の列柱も

法隆寺回廊の円柱も、

それをデザインした人は光が柱を撫で、

廻っていく様を計算し、楽しんでいたのかもしれません。

夕べのひととき。

今日も、もうじき30分ほどのマジックアワーがやってきます。

 

この時だけは、古代ギリシャの石工や飛鳥の工匠と

21世紀日本の片隅で引きこもっているポンコツ建築士は密かに交歓しているのです。

標高900mの並行世界 小さな家の由来記8

2023年9月19日

土地探しの中で、希望や条件に合い一旦購入を決意したものの、事情があって話が流れてしまうことってありますよね。

そんな土地を、ずいぶん経ってからこっそり見に行った経験はありますでしょうか。

何故かわからないのですが、私は時々そういうことをして、わざわざ複雑な心境になったりします(笑)。

本当はここに自分がいるはずなのに、誰か知らない人が住んでいる・・・何故だ!みたいな。

パラレルワールドをみているような感覚です。

 

私の土地探しでは、話が流れたというよりも、契約・購入をして、工務店と打ち合わせまでしていた段階で、地面のトラブルが発覚して、契約解除という経験をしました。

裁判まではいかなかったのですが、時間も労力もかかるストレスフルな日々を過ごすことになってしまいました。

法的には「勝った」のですが、本当に勝ったと言えるのかと言ったらそんなことは全くありません。

そもそも勝ち負けの話ではありませんし。

 

以前書いた文章がありました。

2017年 03月 20日

  
北海道、岩手県、長野県、神奈川県など、東京に住んでいる間、たくさんの土地を見てまわりました。

敷地に合わせて簡単な図面を描いてみて、これは良いかも、と思ったところや、自分たちにはとても手が届かないだろうなとわかってはいても、一応行ってみて「やっぱり無理だった」と納得して(ついでに観光して)帰ってきたようなところもあります。


そんな中、家を建てる一歩手前までいったのが、ある有名な連峰の懐、標高900mの地にある、本当に美しい環境に恵まれた土地でした。

本格的に移住するために東京を離れて、同じ県内に引越し、地元の大工さんと構造の打ち合わせをし、地盤調査までしていました。

その調査の中で、地面の中にあってはならないものを見つけてしまったのです。

事前に近隣の方に挨拶をしながら、重要事項説明書などに出てこない「重要事項」も探ってあったはずなのですが、足りなかったというか、判明するのが遅すぎました。

建築士としても、これから家族を守っていく一人の人間としても、どうしても妥協できない点でしたので、結局、仲良くなった地元の方との人間関係も含めて、心が引き裂かれる思いで、この土地を手放しました。

もう、東京のマンションは引き払っていましたし、もう行く所というか、生活の拠点が無くなり、どうして良いかわからなくなってしまい、とりあえず自分の故郷、静岡に帰ることにしました。

問題を上手く解決し、あのまま家を建てて住んでいたら、今頃どんな生活をしていたのかとか、娘は友達とどんな遊びをしていたんだろうとか、考えると不思議な気持ちになります。

標高900mのあの場所に心を残してきてしまっているので、何かパラレルワールドを生きているような気さえします。

早起きして外に出たときなど、不意にあの高原のような空気を感じることがあって、今どこにいるのか一瞬意識が混乱することがあります。

いろいろありましたが、やっぱりあの土地は自分たちの夢のあらわれではあったのかなと思います。


グーグルアースでそこを見ると、(地面の問題を解決したんだと思いますが)どなたかの家が建っています。

ちょっと自分の設計した家と似ています。

 

建てるはずだった自宅のパース(雑)です。

2023年9月19日

昨年長めのドライブをしたついでに、勇気を出してその標高900メートルのまちに寄ってみました。

十数年ぶりでしたが、変わらず美しく、こんなところに住めたら幸せだろうなと思える場所のままでした。

契約解除した土地そのものについては、50メートルくらい手前まで行ったのですが、さすがにそれ以上近づく勇気はありませんでした。

 

風立ちぬ /美しい村 憧憬   小さな家の由来記7

家を建てるための土地探しの旅。

文学作品の舞台になった憧れの地をいくつかまわりました。

そんなエリアの一つ、浅間山山麓八ヶ岳山麓は随分たくさんの土地を見させてもらいました。

 

これだと思う理想の土地にも出会いました。

敷地の左右と奥は林の状態のまま、未舗装の可愛らしい道を挟んだお向かいには素敵なお家が建っています。

敷地にあわせた簡単な図面(今住んでいる家はその時のプランをもとに設計しました)も描いて、そこでの生活をあれこれ思い描きました。

 

不動産屋さんによると、

「作家の〇〇さんの奥様がご健在で、お向かいにお住まいですよ。」とのこと。

胸が高鳴ります。

これこそ運命なのでは・・・。

その作品世界に憧れてこの地を歩いているんですから。

 

でも、どうして自分はこんななんだろう、と思います。

 

一瞬の後、急に怖気づくというのか尻込みするというのか、スルスルとムーンウォークのように気持ちが後退してしまいます。

本当は高揚しているはずなのに、ここで人並外れた自己評価の低さを発揮してしまいます。

 

自分などがご近所になるわけにはいかない・・・。

 

その作家の生涯と作品とこの地は溶け合ってひとつの世界を形作っている。

その世界に対して抱いている強い憧れ。

 

上手く例えられなさすぎにも程があるのですが、よくタイムマシンで過去に行ってあれこれすると現在が変わってしまうプロットがありますよね。

あんなかんじで、その世界のほんの微細な部分であっても、そこに自分が関わって何かしらの影響を与えてしまうと、自分が憧れていた世界が変質してしまうんじゃないかという・・・。

随分拗らせています。

己の扱いが面倒です・・・。

 

それで、美しい村は美しい村のまま、心の中にそっとしまっておくことにしてしまったのでした。

どなたかがおっしゃっていたのですが。

大阪万博で何時間も並んで「月の石」を見たけど、がっかりしたと。

何だ毎晩眺めてる月の方が美しいじゃないか!。

 

裸の大将放浪記」で、山下清画伯が富士に憧れ、登ってみるのですが、その荒涼とした風景に深く傷つくシーンがありました。

 

憧れは遠くで眺めているからこそのもの。

ちょっとだけ後悔もありますが、あれで良かったんだと思うことにしています。

 

避暑地と赤いベンツ 小さな家の由来記 5

2023年8月19日

土地探しの旅のなかで、海辺のまちにも足を運びましたが、どちらかというと山派のようで、標高の高い所もたくさん見てまわりました。

私達夫婦は2人とも海辺の生まれ育ちなのに不思議です。

異世界への憧れでしょうか。

 

昔書いていた文章です。

2017年 3月17日  避暑地と赤いベンツ

東京に住んでいる頃、体調があまり思わしくなく、どこか空気の良いところで暮らしたいと考えて、某有名避暑地の土地を集中的にまわっていた時期がありました。

どの土地も、カラ松林に囲まれた美しく気持ちの良い場所でした。

 

ネームバリューに惹かれていたわけでは、もちろんありません。

実際、候補になったのも、その有名避暑地の名前がつかない、隣町にあった土地でした。

 

避暑地というと、別荘ばかりでシーズンオフは閑散としているイメージがありますが、そこは定住している方も多く、近くに学校や幼稚園もあり、仕事をするのにも生活するのにも、理想に近い所でした。

 

その頃まだ子どもはいませんでしたが、一応幼稚園や学校などの施設も見ておこうと思って、レンタルしていたスズキのラパンで近くをぐるぐるとまわっていました。

それが間違いでした。・・・いや、むしろ正解だったのかな。

 

ちょうど幼稚園のお迎えの時間だったんだと思います。

お母さんたちの迎えの車が列をなしているんですが、並んでいるのは、赤いベンツ赤いBMW、あと名前はわかりませんが、とにかく赤い高級車

それはつまり、「日常の足として使うセカンドカーなのに高級車」という記号なのだろうと私には思えてしまい(思い込みなのですが・・・)、「ここには住めない」と瞬時に悟り、スズキ・ラパンでそ~っと脇を走り抜けました。

「土地は買えても、隣近所は買えない」という話をよく聞きます。

 

住むということは、子どもも含めてその地域の一員になっていくということですから、その土地の「地べた」そのものだけでなく、コミュニティーも含んだ広い意味での「土地がら」をみていくのも大事ですね。

良い悪いではなく、私達はただ、そこに似合いませんでした。

 

2023年8月19日

高原を渡る風、木々の香り、野鳥のさえずり、その中に身を置くこともできたのですが、あと一歩のところで、自分から離れてしまいました。

両手にすくっていた夢が指の間からスルッとこぼれていったような感触が残っています。

 

ちなみに今乗っているのは、スズキ・ラパン(しかもメインのファーストカー 笑)です。

逢えたら長生きしたくなった  藤原義孝先輩の純情

いきなりで何ですが、私どうしても

「親子丼」という名称を受け入れることができないんです。

料理の名前なんかなんでも良いだろ、というのも確かにそうかもしれません。

 

でも、いくら何でもひどすぎませんか。

そうでもないですか。

 

いずれにしても、こんな変てこな事でひとり苦悩している自分っていったい、と思っていたのですが・・・。

 

今昔物語集藤原義孝(ふじわらのよしたか)のエピソードにこのようなものがありました。

 

酒の席で鮒(ふな)の子膾(なます)鮒にその卵を和えた膾ーが出された際、義孝は涙ぐんでその場を立ち去ったというものです。

親の肉にその子を和えたものを食べるなどという惨いことはできない、ということですね。

 

1000年以上も前ですが、素敵な先輩がいました。

 

エリートの家系に生まれ容姿端麗。

でも、何より仏道に熱心で信仰心に篤く、はやくから出家を願っていた義孝先輩らしいエピソードです。

これからという、20歳の若さで天然痘に倒れてしまった先輩。

 

そんな敬愛する義孝先輩のうた。

いわゆる「後朝(きぬぎぬ)のうた」ですね。

百人一首 50番歌

君がため

惜しからざりし

命さへ

長くもがなと

思ひけるかな
  
  藤原義孝 後拾遺集

 

【現代語訳】

あなたに逢うためなら

惜しくないと思っていたこの命も

逢うという願いが叶った今では

長くあってほしいと思う

 

あなたに逢えるなら死んでも構わない

なんて思ってたのに

逢ってみたら幸せすぎて

死にたくなくなっちゃった

 

こんな感じですね。

ひたむきさが愛らしいですね。

純情な感情ですね。

 

義孝先輩の純情を表現したく、音をつくってみました。

 


建築の勉強をしていた頃、時々「即日設計」という課題がありました。

一日で一軒の家を設計して図面を仕上げるのです。

それを急に思い出して、音を「即日制作」してみようと思ってしまいました。(思ってしまったら、やってみることにしています)

 

曲をつくって、アレンジして、演奏・打ち込みをして・・・、と半日くらいでやっつけました。

直観と瞬発力のみ。

粗はあるのですが、後ろは振り返りません(笑)。

 

和歌の世界らしく本歌取りをするという課題も己に課しています。

「あなたのそばに居たい」ということで、カーペンターズの「Close to You」のアレをねじ込みました。

 

朗読は奥様にお願いしました。

youtu.be

今までつくったものの再生リストです。

youtube.com

 

宮沢賢治の世界で暮らしたい 小さな家の由来記 4

10代の頃から宮沢賢治の作品に親しんできました。

本だけでなく新潮社の朗読カセットをテープがヨレヨレになるまで聴いたり、アニメ映画の「銀河鉄道の夜」のビデオを50回くらい観たりして・・・。

動物や森の樹々と会話のできる世界がファンタジーとは思えなくなるほど、その世界観が頭の中で育っていました。

 

学生時代から長いこと東北で暮らしていたので、花巻には何度も足を運びました。

研究室のフィールドワークでも花巻を訪れ、地域の古老にインタビューをして、失われつつあるその音韻を記録したりしました。

「寿司」と「獅子」と「煤」の発話を録音したり、その音韻を音声記号で書きとったりするのです。

 

土地探しをする中で、当然のように花巻もその候補にあがりました。
宮沢賢治の世界で暮らしたかったのです。

 

花巻温泉に宿をとって(しっかり旅行も兼ねます 笑)、地元の不動産屋さんに予約をしておいて、随分たくさんの土地を見せていただきました。

近くに美しい川がとうとうと流れていたり、「セロ弾きのゴーシュ」に出てくるような小動物がひょっこり顔を出しそうな林の中だったり、素敵な土地がいくつもありました。

 

ただ、こういう土地の「あるある」ではありますが、敷地の把握の仕方がおおらかですね。

境界杭なんて、たいていありません。

あっても、何かの拍子に抜けてしまって、その辺にころがっていたり・・・。

この辺からこの辺までみたいな感じで。

もちろん後で公図から境界を確定して杭を打ったりするのですが、その公図自体も何だか・・・という感じです。

 

まあ、その辺りは何とかしようということで、秋の木漏れ日の美しい、ある土地を眺めていました。

ああ、賢治さんの世界だなあ、なんて思いながら。

 

広大な敷地の真ん中あたりに、何かがポコッと出っ張っているのに気がつきました。

近くで見てみると石碑のようなものでした。

不動産屋さんにきいてみると、満面の笑みで、

「ああ、それね。江戸時代のお墓ですね。あとで掘って移動しときますから大丈夫ですよ。」

なるほど。掘って移動するから大丈・・・、って大丈夫なのか!

そのまま、不動産屋さんはどこかに行っちゃうし・・・。

 

夫婦で、そのお墓を眺めながら思案の時間が続きました。

しばらくすると、袋から溢れるほどの栗を抱えて、不動産屋さんが帰ってきました。

「こんなに栗が採れますよ!。」

またも満面の笑みなのですが。

確かに秋には毎日栗ご飯が食べられるけど・・・。

 

結局、いろいろあって(というかお墓)断念しました。
栗は、おみやげに持って帰っておいしくいただきました。

はやく秋にならないかな。

月と六ペンスと建築 小さな家の由来記 3

折り返し地点を過ぎると、「残り時間」というものを否応なく意識してしまうものですが、若い時分は時間が無限にあるように感じたのと、生来のんびりしているのもあって、随分と遠回りなことを平気でしてきました。

 

福島県三春町に家を建てる計画は、退職のタイミングやら何やらが上手くいかなくて、断念しました。

 

そして退職後は、20世紀の青年らしく(笑)インドに行き、あれこれ考え、建築の道に進むことにしました。

あれこれと言っても、一晩考えただけで決めてしまったのですが・・・。


文学部文学科の卒業ということなど関係なく、いきなり理系の人になりました。

 

今考えれば、理想の土地に理想の家を建てるという夢を叶えるなら、他にもいろいろ方法はあったと思うのですが、学校に入り直して建築の勉強をして(リスキリングですね)、一級建築士になって、自分で設計をする、という途轍もなく遠回りなロードマップを描いてしまいました。

えらく面倒です。

インドのせいです(笑)。

それと、飛行機の中で読んでいた「月と六ペンス」(モームのせいでもあります。

せっかくついた仕事を辞めてしまうのは、果たして意思の力が弱いのか。

意思の力?。だが、そういえば、いかにそのほうが充実した、生き甲斐のある生活だと考えたにしても、三十分やそこいらの考慮一つで、決然と一生を棒に振ってしまうというには、果たして意思の力は要らないものだろうか?。さらにはまた、このいったんの決心を、あくまで悔いないというにいたっては、もう一つ強い意志力が要るのではなかろうか?。

「月と六ペンス」モーム)より 中野好夫 訳

 

土地や不動産のことを知るために、その方面の勉強もして宅建もとりました。

宅建「インテリアコーディネーター」二級建築士一級建築士

 

長かった・・・、そして面倒でした(笑)。

 

そんなこんなで、土地探しの旅は8年程お休みになりました。

無駄だったのか無駄で無かったのか、わかりません。

ただ、もう少し効率の良い方法もあったんじゃないかとは思います。

もう一回繰り返すのは嫌です(笑)。

 

土地探しの再開は、結婚後、東京の生活ももういいかなと思い始めた2005年頃からでした。

人間の中には、ちゃんとはじめから決められた故郷以外の場所に生まれてくるものがあると、そんなふうに僕は考えている。
なにかの拍子に、まるで別の環境の中へ送り出されることになったのだが、彼らはたえず、まだ知らぬ故郷に対してノスタルジアを感じている。
(中略)
そしてむろんまだ見たこともない風物の中、また見も知らぬ人々の中に、まるで生まれた日以来、そこに住みつづけていたかのような心やすさをさえおぼえる。そして、そこにはじめて休息を見出すのだ。

「月と六ペンス」モーム)より 中野好夫 訳



三つの春を探して 小さな家の由来記 2

土地探しの長い旅を本格的に始めたのは2005年頃でしたが、90年代後半の、まだ独身時代に一度土地探しと家づくりを考えたことがあります。

想いを寄せた場所は福島県三春町でした。

旅路のスタート地点はあそこだったかもしれません。

 

その豊かな自然環境をいかして、農地と宅地を複合的に開発しようとしているエリアがあり、そこに興味を持って会員登録のようなものをしました。

 

(お金をとる)放送局をやめて、もっと土に親しむ生活をしたいと思っていたんです。

夜中でも「おはようございます」なんていう世界に疲れていたこともあります。

パーマカルチャーやなんかを勉強して、そういったものに憧れの強い20代だったようです。

当時の愛読書は福岡正信さん「わら一本の革命」でした。

 

生活が安定するまで、と思い地元の小さなパン屋さんの面接まで受けていました。

社長には絶対(お金をとる)放送局を辞めないように諭されましたが・・・。

 

結局、退職のタイミングやら何やら、ひとつも上手くゆかず、結局そこに家を建てることはありませんでした。

 

でも、あの町の愛らしい風景や空気の清々しさは忘れることができません。

 

仙台での学生時代、何人かいた福島出身の友達は、本当に穏やかで朴訥で、そうじゃない人ももちろんいるんでしょうけど、少なくとも私の中の福島の人は皆、あたたかく優しい人たちでした。

そして仙台や秋田から見ると福島は南国、といったら大袈裟ですが、暖かくどこまでも美しく優しい土地がらでした。

 

ですから、そんな福島の、私の故郷になったかもしれない福島の土を汚したものを心の底から憎みます。

 

梅・桃・桜、三つの春が同時にやってくるという福島県三春町。

夢のような美しい場所でした。

 

その後、それこそ100か所以上土地めぐりをしましたが、どこかであの三春町の風景を探していたのかもしれません。

 

手付流しと倍返し 小さな家の由来記 1.1

先日なにげなく「手付(てつけ)」のことを書いたのですが、不動産の売買にそれほど馴染みのない方もいらっしゃるかもしれないと思い、慌てて「手付」について簡単にまとめてみました。

「申し込み金」と雰囲気が似ているので、ちょっと混乱しがちですよね。

 

「手付(金)」は、土地の売買契約をする際に、買主が売主に対して支払うお金ですね。

普通は決済時に返ってくる=残代金に充てられることになります。

 

そして、「手付流し」(音だけ聞くと何だか風情がありますが・・・笑)は、買主が契約を解除する場合に、その手付を放棄することです。

手付は失ってしまいますが、売主から違約金を請求されることもありません。

 

ちょっと固い言い方ですが、判例によると、「契約において特に定めがない場合には、手付は解約手付であると推定する」こととなっています。

この解約手付というのは、契約成立後でも、一方の当事者だけの意思で契約の解除ができるようにするために支払われる手付金です。

 

ですから、手付を流しさえすれば、契約を解除できるんですね。

 

一方、「手付倍返し」(何だか恐ろしい響きですね)というのもあって、こちらは売主が契約を解除する場合で、手付の2倍の金額を買主に支払います。

 

手付金の金額は売主と買主が話し合って決めますが、売買金額の5~10%くらいが相場(上限は20%)のようです。

 

結構な金額ですね。

私はサインするとき手が震えました(笑)。

 

住宅ローンの審査が通らなかった時に手付を取り戻すために、「住宅ローン特約」を結んでおくと安心ですね。

何年か前、まだ土地が決まっていない依頼者の方と家づくりの方向性について打ち合わせをしていた時、急に「土地を契約しました」との連絡がありました。

家の相談は散々しているのに、土地については一言も相談してくれませんでした・・・。

どうもフィーリングのようなもので決めてしまった節があります。

 

敷地図をみると、今まで相談していた家が建てられるような土地ではありません。

そのことを正直に話してみると、「だったら100万(の手付)流せばいいんですよね」と、スナック感覚(笑)で言われて驚愕したことを覚えています。

 

いつか書くかもしれませんが、私自身が、その手付金で随分悩んだ経験がありますので、大変なショックを受けました。

 

それほどの時を置かず、その方とのお仕事は消滅しました。

世の中には自分の知らない世界がまだまだあるのだということを、痛みをもって学んだできごとでした。

 

そして私は、文庫本を買うのにも悩んで、一回家に帰って(笑)考えたりする小市民です。

運命の出会いはあるのか  小さな家の由来記 1

2023年8月6日

「ビビビ婚」(古っ!)のようなものが、土地との出会いにもあるのかな。

時々考えます。

住宅本をたくさん読んでいると、そういった感じのストーリーに馴染んできますね。

本に限らず作品として世に出すのなら、多少のトリートメントは施すだろうな、と今は思っています。

誰だってちょっと盛りますよね(笑)。

 

以下は、2017年に書いたものです。

運命の出会いはあるのか   (2017年 3月11日) 

 

家づくりの本や雑誌で、「この土地に運命的な出会いを感じ、その日のうちに契約しました。」という定番のエピソードがありますね。

 

「後で振り返ってみたら運命的だったな」というのはあるかもしれませんが、「その場で運命を感じる」というのは、なかなかないような気がします。

それとも、お金持ちで、もし何か問題があれば「手付を流して契約解除すればいい」位の気軽な感じなのかな。

 

私には、運命を感じる能力や100万レベルの手付を流せる余裕がありませんので、普通に、慎重に慎重に土地を探します。

 

人に相談された時も、できるだけ土地はたくさん見たほうが良いですよとアドバイスしています。

何より、眼が肥えてきますからね。


自分自身の土地探しの際には5~6年かけて長野から北海道まで、100箇所くらいの土地を見てまわりました。

不動産屋さんに「のんびり考えてると、今日にでも他のお客さんが付きますよ」というお馴染みのプレッシャーを常にかけられながらでしたが・・・。

それでも気にせず、気に入った土地があったら、いちいちそこに合わせて図面を描いたりしていました。(幻の自宅図面がたくさんあります。)

そのうち、その間に売れてしまったとしても、それは「縁がなかった」と考えられるようにもなってきましたし、実際そのようなことがあっても、その後もっと良い土地が出てきたりするものだ、ということもたびたび経験しました。

 

土地には、周辺環境を含めて熟考しなければならない事がたくさんありますし、その後の長い人生がそこにのっかることになります。

運命を感じ、一目惚れで、ぱっと契約出来るほど軽いタッチの話ではないのかなと、私は思っています。
更地だった頃の自宅敷地


土地めぐりの長い旅路の末に、結局生まれ故郷の静岡に家を建てました。

まだいろいろな顛末が生々しすぎて、それが運命的だったのかどうかは、わかりません。

ずっと後になったら、わかるかもしれないなと思っています。


2023年8月6日

たった6年前ですが、文が若いというか、ちょっとキツイ感じがします。

年齢を重ねるのも良いものですね。

小さな家の由来記 0

建築ブログだったのでした。

 

建築、主に住宅建築について何か参考になるようなことでも書いて、少しでも人様のお役に立ちたいなどと殊勝なことを考えブログを開設したのですが、ただただ人様のブログを読んで「自分の役にたっている」というのが、実際の有様です。

本当は私も一級建築士で、それなりの知識や経験を持っているつもりだったのですが、皆様の家や暮らしに関するブログを拝読するにつけ、そのセンスや熱意、そしてその結果としての豊富な知識量に圧倒され、次第に当初の意気込みもシュルシュルとシュリンクしていったのでした。

 

恥ずかしくて、自分の考えなどとても開陳できたものではありません。

 

建築士などという肩書は伏せて、当初から施主としての思いだけを綴っておいたら良かったのかもしれませんが、もはや手遅れです。

できたら、建築士ということは忘れてください(笑)。

 

それでも、吉村順三さん「小さな森の家」のように、自分の家の物語が綴れたらいいなとは思っています、

私は何かの最中にそれを記録するということが、とにかく苦手です。

小学校から大学まで、ノートというものをほとんどまともにとったことがありません。

土地探しや家づくりの最中も目の前の事に精一杯で、記録をとったり、ましてや文章に残したりということがまったくできていません。(子育てについても同じことが言えるかもしれません。)

ですから、「その最中」にそれを克明に記録し、リアルタイムであっても事後的であっても、公開してくださる方々を心底尊敬しています。

  

 

土地探しからいったら20年近く前なので、随分記憶が怪しくなっています。

さらに、私は「思い出補正」の傾向が強く、辛いことはいい感じに忘れるようにできているらしく、そんな感じの記憶になっています。

結果的にあまり覚えていることがなく、ということは辛い事だらけだったということですが(笑)、なんとか絞り出して、時々書いていこうかなと思っています。

建築ブログなので!。

 

土地探しの頃のものは、幸い少しだけ文章にしたものが残っていました。

ただ、その時でさえ10年程前のことを思い出しながら書いたので、すでに怪しげな代物です(笑)。

 

それでも、完全に忘れてしまう前に、あるいはフィクションの記憶で塗り替えてしまう前に、これから少しずつ「ノンフィクションを原作にしたドラマ」位のふわ~っとした信ぴょう性を持った、謎の記録を残していければと思っています。

 

何だか始末書のようになってしまいました。

 

自然に感じ入る日々

静岡の海沿いのまちに家を建てました。

いつも頭の片隅にうっすらと津波のことがあります。

車のお腹がすぐに錆びてきます。

 

それでも、海の力は偉大です。

 

昔、理科や、建築の環境の授業で習った「海風と陸風をきちんと吹かせてくれます。

昼は海から陸に向かって、夜は陸から海に向かって。

 

天気予報の画面では日本地図が真っ赤になって、37℃、38℃という体温超えの気温が日々伝えられるなかでも、この辺りはせいぜい33℃程度です。

 

物理の法則とはいえ、環境の調整を日々してくれている海に感謝です。

庭の樹々も効果を発揮し始めました。

葉からの蒸散作用が、微弱だけれど天然のクーラーになって涼風を室内に送り込んでくれます。

 

外気温が32℃程度の時、窓を開け放った室内は28℃程度。

およそ4℃の差が生じています。

 

それこそ、陸風もあって、夜間は24℃から25℃ほど。

格子戸に施錠して、大きな掃き出し窓を全開にしていますので、夜中に寒くなって布団をかぶって寝たりしています。

 

家の中に目を向けると、無垢の木漆喰が大きな働きをしているようです。

我が家の柱・梁・床・天井、すべてに、天然乾燥させた無垢の木(といっても、節だらけの等級の低いものなので、驚くほど安価です)を使っています。

 

時間をかけて乾燥させているので、ある意味で木の細胞も生きています。

その木が調湿をしてくれているようです。

 

天然乾燥なので、建ててからも乾燥は続きます。

そのせいか、数年前までは、その調湿機能がうまく機能していませんでした。

この時期になると、何となく床や柱がべとべとしている気がして。

 

今シーズンはサラッサラです。

8年程たって、天然乾燥がようやく完成して、調湿機能が働き出したのではないかと思っています。

漆喰の壁も同様です。

湿度が上がると水分を吸い、下がると放出してくれます。

 

自分が何かしたわけではなく、すべては、自然と自然の素材が坦々とその天分を発揮しているのみです。

庭の木がそこそこ育つのにも、木材や漆喰が完全に乾くのにも長い時間を要しましたが、必要なのはその時間をのんきに待つ「気長さ」だけのような気がします。

 

 

今、気持ちの良い夜風が吹き込んできます。

子どもの頃の夏の夜って、こんな感じだったなと、しみじみ。

 

地球環境は一直線に崩壊に向かっているかのような論調も散見されますが、決してそんなことはなくて、まだまだやれる(やめられる)ことはあると思っています。

宿題は涼しいうちに  夏のレファレンス

第二の故郷、秋田が大雨で被災してしまいました。

親戚の家はギリギリ浸水を免れたそうですが、断水が続いているようです。

一日も早く、平穏な日常が戻りますように。

 

夏が何だか雑な感じになってきましたね。

子どもの頃の夏はもう少し情緒があったような気がしますが、これも思い出補正でしょうか。

ラジオ体操に行って、午前中の涼しいうちに宿題を。

正調・昭和の夏ですね。

 

昼頃、気温を測ってみました。

ざっくりと、

庭の日向  32℃

庭の日陰  31℃

家の中(エアコン無し) 28℃

庭から涼風が吹き込んできますので、体感はもっと低いと思います。

BREEZEが通り抜けます!。

 

御の字ではないですか。

10時頃は室内で26℃くらいだったので、「涼しいうちに宿題ができる」夏の雰囲気を湛えていましたよ。 

今のところエアコン無しでいけそうです。  

 

少し前の試算だと、ピーク電力から20%減らす原発に頼らなくても良い社会になるそうですね。

よく「江戸時代に戻れっていうのか」とか、勢いあまって「縄文時代に戻るのか」と怒る方がいらっしゃいますが、ピーク電力が今より20%少ない時代1985年だそうです。

 

それこそ思い出補正もありますが、80年代って、キラッキラに輝いていませんでしたっけ。

コカ・コーラのCMなんてみると泣けてきます。

 

この際、生活スタイルを80年代風にしてみるのも一考の余地があるのではないかと思います。

生活スタイルのレファレンスを80年代におくことで、30年以上時計の針を巻き戻す感覚は、私にはありません。

小声でお訴えをさせていただきました(笑)。

 

私の夏のレファレンスは80年代です。

A LONG VACATIONに針を落として、チューニングのA音が鳴った瞬間に、それこそBREEZEが心の中を通り抜けます。

半径10メートルの世界だけでも80年代の夏に戻すことで、2020年代の夏を乗り切ろうとしています。

 

 

空と君とのあいだには   やかましい屋根の話

我が家の屋根材はガルバリウム鋼板

メリットはたくさんあって、それでガルバリウム鋼板を選択したのですが、こと音響面になると注意が必要です。

承知していたとはいえ、金属屋根の発するサウンドには、なかなかのものがあります。

 

平屋のうえ、いわゆる平天井を張っていないので、室内空間のすぐ上を屋根が覆っているかたちになります。

こちらは断面詳細図。

※ 奥に見えているのは、化粧垂木の見えがかりです。

 

一応、屋根材に防音措置がなされていたり、断熱材などで多少は吸音しますが・・・。

やはり、平天井が無いのが大きいようです。

唯一平天井の張ってある洗面まわりでは、ほとんど気になりませんから。

 

大げさに言えば、ちょっとした太鼓の中に住んでいるようなものかもしれません。

※ 室内側の仕上げは、化粧野地板化粧垂木で、平天井は張っていません。

 

以下は、メリットなのかデメリットなのかよくわからない(笑)ものの羅列です。


雨が降り出した一粒目からわかります。(デッキに洗濯物を干しているときは、すぐにとり込めるので便利です。)

屋根の上で遊んでいるのが、カラスなのかスズメなのかもわかります。

ベテランになってくると、スズメとセキレイの足音の違いも分かるようになります(笑)。

子離れの時期に巣を追い出された子ガラスの戸惑いの足音も感じ取れるようになってきます。

これ、本当にわかります。

心うたれるドラマがあります。

ただ、あんまりやかましいときは、下から棒でつついたり、外に出てパンパンしたりします(笑)。

自然との交歓ですね。

屋根が、空・自然とのインターフェースになっています。

 

 

豪雨の夜はだいたい20~30ミリ/hくらいの降雨で会話が成立しなくなります

・・・これを「自然を身近に感じる」ものとして鷹揚にかまえていられるか。

胆力が試されます(笑)。

 

・・・もう、疲れ慣れました・・・。

そして、このかましい屋根が今では、まあまあ気に入っています。

この化粧野地板・化粧垂木の、あらわしの天井が違う意味で音響的な効果をもたらすのです。

それはまたいつか書きたいと思います。