人と栖と

小声で語る 小さな家と本と音楽のこと

通読成功率10%の名著  「森の生活」 HDソロー  [家と本]

1845年の夏、28歳のHDソローはウォールデン湖のほとりに小屋を建て、自然の中でシンプルな生活を始めました。

「森の生活」はその2年2か月の記録です。

 

初めてこの本を読んだのは25年位前のことで、以降10回位読んだのですが、1ページ目から最後のページまで一気に通読できたのは、たぶん1回だけだと思います(笑)。

私の場合、どうしても章ごとにバラバラと読む読み方になってしまいます。

 

つまらないというわけではなくて、逆に面白すぎるというか、「濃すぎて」途中で疲れてしまうのです。

 

この「森の生活」はエッセイなのですが、「名言集」のような雰囲気を持っています。

大作家の名エッセイを一晩かけて煮詰めたみたいで、濃厚すぎて・・・、箸休めがないといいますか、「一回休憩させてください」という感じになってしまいます。

 

しかも、(ここが私がソローさんを好きな理由でもあるのですが)ちょっと「狙って」書いている感じがあるんです。

それはカッコよすぎるでしょみたいな・・・。

 

私の家には三つの椅子があった。

ひとつは孤独のため、もうひとつは友情のため、三つめは交際のためである。     

   

   真崎義博 訳  宝島社文庫

 

何だかすごそうだけど、よくよく考えるとあまりピンとこないというか・・・。


ソローさんはかなり毒舌でもあります。

こじらせている気配が行間から伝わってきます(笑)。

同じく敬愛する、鴨長明さんと似たテイストの雰囲気を漂わせていて、6世紀半ほど時を隔ててはいますが、もしや転生したのではないかとさえ思います。

 

通読するのは大変ですが、小さな家に住むこと自然と共に生きることへのヒントが満載です。


この「森の生活」もそうですが、「一市民の反抗」など、ソローさんの他の著書も、いずれも後世に大きな影響を与えた名著ですので、また時々まとめてみたいと思います。

しっかり「理解できた」言葉のなかから、いくつか引用を。

 

家について。

ほとんどの人は、家とは何かということについて一度も考えたことがないらしい。

とにかく近所の人と同じような家を持たなければ、と思い込んでいるために、不必要な貧乏をしているのだ。

 

森に小屋を建てたことについて。

思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生がおしえてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するはめにおちいりたくなかったからである。

誰かの思い出のすみっこに

週刊朝日に載っていた、林真理子さんと松任谷由実さんの対談がすごく心に残りました。

  :いまに「ユーミン博物館」ができたときに、ユーミンのお洋服がダーッと並んで……。

 

松任:博物館はつくらない。

そういう3次元的なものは意味がない。

絶対なくなる。       

石原裕次郎記念館もなくなったし。

ハコモノはダメ。

だから歌をやっててよかったの。

人の心に入り込めば、死ぬまで持っていけるんだもん。

どこにでも運べるし、風のように街を漂ってるし。

 

  :「私が死んでも私の歌は残ってほしい。その願いがかなえられつつある」ってこのあいだテレビで言ってましたよね。

 

松任:そうね。まあ、一里塚ぐらいかな(笑)。

     

   週刊朝日  2023年1月27日号より

 

dot.asahi.com

憧れます・・・・・。

 

音楽や文学は強いな、と思います。

小野小町の哀しみを21世紀の今でも共有できるんですから、途方もない力ですよね。

建築は、そういう意味では弱いのかもしれません。

それこそ、3次元のハコモノそのものですから・・・。


ただ、家や建築も、記憶の中で生き続けることはできると、少なくとも私はそう信じています。


長田弘さんの「あるアメリカの建築家の肖像」という、心の支えになっている大好きな詩があります。

家は、永遠ではない。

火のなかに、失われる家がある。

雨に朽ちて、壊れて、いつか

時のなかに、失われてゆく家がある。

けれども、人びとの心の目には

家の記憶は、鮮明に、はっきりとのこる。

 

「あるアメリカの建築家の肖像」より抜粋   

「世界はうつくしいと」 長田弘  みすず書房

 

自分のデザインしたものは、誰かの記憶に残ってくれるでしょうか。

毎朝我が家の前に集合するこどもたちの、思い出のすみっこに存在してくれるでしょうか。

「へんてこな家があったな」とか(笑)。

そうであってくれればいいな、と思います。

役目を終えて、この家が取り壊されるとき、全然知らない誰かが、こっそり悲しんでくれたらいいな。

それが、ささやかな願いです。

 

白くないミニマリズム  [家と言葉]

ミニマリズム[minimalism]

完成度を追求するために装飾的趣向をこらすのではなく、それらを必要最小限まで省略する表現スタイル。

1960年代に音楽・美術の分野で生まれ、ファッションにも導入された。

ポスト・モダンと相反する概念。     

(ブリタニカ国際百科事典)

 

建築やデザインを勉強しはじめた頃からの憧れでした。

ミニマリズムの、特に「白い」空間

 

例えば、カンポ・バエザのゲレーロ邸やガスパール邸。

ゲレーロ

 

ガスパール

記憶を遡れば2001年宇宙の旅に出てくる宇宙船内のインテリアデザインが潜在意識に刻まれているのかもしれません。

(何となくですけど・・・、多くのミニマリズムのデザイナーはあの空間をお手本にしているんじゃないかという気がします。)

 

ミニマリズムのデザインはたくさん勉強しました。

ギターでJeff Beckをコピーするみたいに、図面やパースを描いてコピーしましたが、自分がデザインするとなると難しいです。

 

木が好きで、木はできるだけその素材感を活かそうと思うので、白くなりようがないのですが、それでもできるだけ、いらない装飾はそぎ落としてシンプルな空間を目指しています。

 

そもそも、ミニマリズム=白、というわけではないので、こだわっているわけではないのですが、何となく淡いモノトーンな感じに憧れはあります。

 

私のデザインは・・・、

「お弁当が茶色っぽくなっちゃう」みたいな感じでしょうか(笑)。

 

電気料金で時空の歪みが・・・ 

我が家は「パート電化」で、給湯はガス、暖房は灯油と、エネルギーの利用とリスクを分散しています。

ちょっと大袈裟な言い方ですね・・・。

普通にオール電化にしていないだけです(笑)。

 

それにしても、このご時世に、先月の電気代、3人家族世帯で3,700円・・・

光熱費全体だと13,000円位でしょうか。

 

心頭滅却」的はことはしておりません。

ちょっと時空が歪んでいるのかもしれません。

 

特に節約のようなことはしていませんし、むしろ食べたいものを食べ、やりたいことをやりたい放題好き勝手にやっているのですが、随分と質素な暮らしのようです。

いろいろと考えてみたのですが、結局はその「食べたいもの」や「やりたいこと」が、たまたまローコストなのかな、というのが結論といえば結論です。

例えばの話なのですが、極端に言うと、「高価なお酒」より、「おさゆ」が大好物だったら、相当安上りですよね。

「少欲知足」というより、ちょっと「知らぬが仏」っぽい要素もありそうです。

それはそうと、図らずも、(やせ我慢とかではなく、本当に)自分の好きな「もの」や「こと」がことごとくローコストだとしたら、かなりラッキーです。

 

これは、基礎代謝が高いと言ったら良いのか、低いと言ったら良いのか・・・、いくら考えてもわからないのですが(笑)、生きていくランニングコストが低いのは間違いありません。

 

空気とか陽の光とか、いいものって、だいたい「無料」なので、もしかしたら、これでいいのかもしれません。

 

この本と出会う前には戻れない・・・かも   「地球家族」  [家と本]

「申し訳ありませんが、家の中の物を全部、家の前に出して写真を撮らせてください」

地球のリアルな今を知る。世界の平均的家族の持ち物と暮らしレポート。

戦火のサラエボから、モノのあふれた日本まで、世界30ヵ国、その国での「中流」と呼ばれる家族の持ち物全てを外へ持ち出して、カメラに収め紹介する。
(中略)
住まい、モノ、家族、暮らし。地球のリアルな「今」がわかる一冊。

あなたの家にはどんなモノがある?
    

TOTO出版の紹介文より

 

この本と出会ったのは90年代。(今も版を重ねるロングセラーです。)

折にふれて読み返している本です。

紹介文にあるとおり、世界30か国の家族の「モノ」をすべて家の前に出して、記念写真のように撮影したものなのですが、写真一枚一枚の情報量がすごいのです。

ページをめくる手が止まります

 

実物をご覧になっていただくほかないのですが、なかなかのインパクトです。

環境問題や戦争や地域紛争、家族の人数、使っている食器からペットの種類まで、あらゆる次元の情報と思考が頭の中で渦を巻きます。

 

この本の初見の感想は、たぶん「それにしても、モノにあふれた日本っていったい・・・」という感じなんだと思います。

他の国みたいなシンプルライフを目指そう・・・。


第一印象では私もそうでした。


ところが、長い間読み込んで眺め倒しているうちに、徐々に心情が変化してきました。

国とか、地域とか、モノが少ないとか、あふれているとか、関係なく、幸せを求める強い意志を感じるようになってきたんです。

 

風土も文化も社会制度も経済の仕組みも、まるで違います。

多少の差はあるにせよ、それぞれ何らかの不幸や困難を抱えているのがデータからでも読み取れます。

その困難を排除するのは、個々の努力では難しいことも伝わってきます。

 

それでも、それぞれの家族のそれぞれの形の、幸せを求める祈りのようなものが写真から伝わってくるんです。

 

モノが多いとか少ないとか、「なんでもいい」と思えるようになってきたんです。

建築やインテリアや家具やモノ。

いろんなスタイルや主義主張がありますよね。

でも、「こうでなくてはいけない」なんてものはないんだ、と私は思っています。

幸せのかたちに正解なんてありませんし、人それぞれ、本当になんでもいいんです。

以前は、「こうでなくてはいけない」をたくさん持っていましたが、気づいたら全部手放していました。

 

この本に出会い、時間をかけて、ものの見方が変わりました。

読み込むには、もっと時間がかかるかもしれません。

この本にとらえられている「地球」を自分なりに理解するのには一生かかるかもしれません。

 

私にとって、それ位大きな本なのです。

 

 

先日ラジオでこの本が取り上げられた際に話題にもなっていましたが、(「ファン」の間では有名な話だと思いますが)「日本代表」のウキタ家が良い味を出しています。

 

巻末のウキタ家のプロフィール。

[大切なもの]

(夫)家族
(妻)形見の指輪と陶器

これが、あとでジワジワと来ます・・・(笑)。

 

プチプチで立水栓の応急断熱  [気は心]

我が家はかなり温暖な地にあるので、寒さについては油断していて、外の立水栓は「水道管むき出し」みたいな、オシャレ立水栓(笑)を使っています。

今までは、それでどうということはなかったのですが、ここのところの寒波で、「水道管の凍結に注意」のような話題も多く、小心者の私はあわてて応急の対策をしました。

オシャレでなくなりました…(笑)。

どの位効果があるのかわかりませんが、気は心ということで・・・。

 

札幌に住んでいた頃は、凍結には相当注意をしていて、毎晩寝る前に「水抜き」をしていました。

ところがある晩、それを忘れてしまい、案の定凍結させてしまいました。

そして、業者さんに電話することに。

 

業者さん 「まず、ぬるま湯をちょっとずつかけてみて」

    「でも水が出ないことには、ぬるま湯も・・・」

業者さん 「あんた、内地の人だね。外に水の元がいっぱいあるっしょ!。

 

「水の元」を解かし、ぬるま湯にして、ちょっとずつかけました(急に熱湯をかけると、破裂するので注意!)が、やっぱりだめで、結局「電気でバチッ」みたいなやつで溶かしてもらいました。

ちょっと意地悪な感じでしたが(笑)、今となっては良い思い出です。

部屋を漂う音の粒子  Ambient 1   Brian Eno [家と言葉と音楽]

アンビエント[ambient]  

周囲の。大気の。環境の。

アンビエントミュージック[ambient music]

1970年代末にブライアン=イーノによって始められた環境音楽
人間を取り巻く外部環境の独特な雰囲気を表現するもの。
  (三省堂 スーパー大辞林3.0)

 

アンビエントミュージック[ambient music]

環境音楽の一種。ブライアン=イーノの唱える、人間の生活環境の一部としての音楽でありながら、従来のBGMとは異なったあり方を目指すもの。

       (現代用語の基礎知識 カタカナ・外来語 略語辞典)

建築やインテリアの世界では、主に照明の分野で、アンビエント照明(室内を均一に明るくする)タスク照明(必要な部分だけを明るくする)のように使われます。

 

辞書では、アンビエントミュージック環境音楽の一種、「ブライアン=イーノによって始められた環境音楽と解説されています。

 

環境音楽自体は、それ以前にもジョン・ケージ、ピエール・シェッフェル、エリック・サティ、もっとさかのぼればイタリア未来派の作曲家、ルイジ・ルッソロあたりがその起源かもしれませんね。

ただ、アンビエント・ミュージック」の先駆者といったら、間違いなくブライアン・イーノということになると思います。

「こうした音楽に名前をつけること」の重要性を指摘し、「興味深いものであると同時に、無視できるものでなければならない」と定義したのもイーノだったからです。

 

ブライアン・イーノは活動が多岐にわたりすぎて(人によっては、Windows95の起動音をつくった人という認識かもしれません)簡単に説明できませんので、Wikipediaから引用させてもらいました。

ja.wikipedia.org

"Ambient 1  Music For Airports"は、後に続くことになるアンビエントシリーズの1作目になります。

いわゆるBGMとは全く異なりますし、環境音楽というのも何だか違う感じがします。

はっきりとしたメロディーやコード進行というものはありません。ないと思います。たぶん(笑)。

ゆったりとしたいくつものループが、すれ違いながら、交錯し、室内空間に音の粒子がずっと漂い続けます。

過去の音も、今の音も、これからの音も、同時に鳴って、溶けあっているようで、私にとっては、音楽というより、森の中の葉擦れや雨音や小川のせせらぎのようです。

www.youtube.com

建築家やデザイナーにこのアルバムのファンが多いのは、作曲というより、音が「構成」されているのを感じるからかもしれません。

 

デザインの授業で「平面構成」と「立体構成」というのをやりました。

このAmbient 1 Music For Airportsは、音楽から時間軸を取り除いて、「音」で「立体構成」をしたようなものかもしれません。

確かに「興味深いものであると同時に、無視できるもの」です。

 

私にとってのブライアン・イーノの「音」は、椅子や照明や床や柱と等価な、「興味深い」インテリアのひとつです。

さよなら 座敷わらし  「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」宮沢賢治 [家と本]

ぼくらの方の、ざしき童子(ぼっこ)のはなしです。

あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭であそんでおりました。

家にだれもおりませんでしたから、そこらはしんとしています。

ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒の音がしたのです。
  (中略)

たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。

も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、ただお日さまの光ばかりそこらいちめん、あかるく降っておりました。

こんなのがざしき童子(ぼっこ)です。

  

 宮沢賢治 「ざしき童子(ぼっこ)の話」より  

 

こんな感じのエピソードが4つ並べられた、不思議で、ちょっとだけ怖くて、それでもどこか懐かしい感じのする愛らしいお話です。

youtu.be


娘が小学校3年生くらいまでは、うちにも「座敷わらし」がいました。

何だか当たり前のように言ってますが・・・(笑)。

いつも部屋の隅や天井とロフトの隙間のようなところに気配を感じていました。

 

近所のおそばやさんやハンバーグ屋さんに親子3人でよく出かけるのですが、その頃は、水か4つ出てきたり、子ども用の取り皿がひとつ余計に出てきたりしました。

(よく、ついてきたみたいです。)

店員さんは、ちょっと「あれっ」というような顔をするのですが、それが楽しく、ちょっと幸せな気持ちになったものです。

 

やがて、そんなこともなくなり、家の中でも気配を感じることが徐々に少なくなっていきました。

 

座敷わらしがいると、その家は繁栄し、いなくなると没落するような話はよく聞きますが、幸い我が家は「没落」していません(笑)。

というか、そもそも「繁栄」しておりません・・・。

 

ただただ、娘が成長して、面白くなくなったからなんじゃないかなと思っています。

 

それと、照明器具を増やしたせいで、家の中が少し明るくなりすぎたのかな。
(それでも、天井照明が一つもない我が家は、かなり暗めです。)

谷崎潤一郎が「陰翳礼賛」のなかで嘆いているように、家の中が一様に照らされすぎているのかもしれません。

 

枯葉が吹き溜るように、部屋の隅に、かげの「たまり」があったほうが、少なくとも私は(たぶん、座敷わらしも)、落ち着きます。

うちの「わらし」は中学生になってしまいました・・・。

それでも、座敷わらしさんがいつか戻ってきてくれないかな、なんて密かに期待していたりします。

トキワマンサクの救出と千億の命

トキワマンサクの子ども達が、いたるところで育っています。

特に生垣から落ちた種がたくさん育って側溝のあたりでニョキニョキ出てくるので、時々救出に向かいます。

ワンちゃんたちの「お小水」のターゲットになっている向きもありますので(笑)。

うちの庭にあるトキワマンサクのほとんどが、造園屋さんの林に打ち捨てられた状態になっていたのを、これまた救出してきたものです。

無残な格好で、横に倒れたまま折り重なっていながらも、けなげに根を土まで伸ばし、なんとか生きている状態でした。

ひとつひとつ、からまった根や枝をほぐして、ちゃんとお金を払って(笑)引き取ってきました。

 

最初は、割りばしみたいな、細い棒切れみたいな・・・、頼りない感じでした。

3~4年で随分立派になりました。

こぼれ種が、環境によっては5~6メートルの大木になって、種を落とし、その子がまた種を・・・。

側溝で生まれた小さな芽が、百億千億という命の「可能性」を胎蔵しています。

そんなことを考えていると、何だか宇宙のはてまで飛ばされたような、心細いような、怖いような不思議な気持ちになってしまいます。

 

ちょっと、おかしいのかもしれません・・・。


J・クリシュナムルティがこんなことを書いています。

長い一生の終わり、または生まれたばかりの赤ん坊の終わり、私は以前、小さな新しい植木を持っており、それは生長して見事な樹木になるはずでした。

しかし、ある無考えで不注意な通りすがりのひとが足で踏みつけたのです。

もう決して大きな木にはなりません。

それもまた死の姿です。
      

「最後の日記」  J・クリシュナムルティ    高橋重敏 訳

 

そんなこんなで、時々せっせと救出作業に勤しんでいるのですが、いつも頭の中で、この曲が流れます。

 

森山直太朗さんの「青い瞳の恋人さん」。

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君の瞳が青いのは君の母さんの瞳が青かったから

君の母さんの瞳が青いのは君の婆さんの瞳が青かったから

何処までも何処までもそれを辿ってゆくと

何故だろう 何故なんだろう

涙が零れ落ちていきそうさ

涙がやがて海になるといいな

君は僕を笑うかな 青い瞳の恋人さん

 

青い瞳の恋人さん

 

詞:森山直太朗御徒町凧 / 曲:森山直太朗御徒町凧

 


私には、同じことのように感じるんです。

同じように、宇宙のはてまで飛ばされたような、現在も過去も未来も同時に抱えこんでいるような、たまらない気持ちになります。

 

 

ニューヨークの逆タワマン  「天窓のある部屋」 O・ヘンリ   [家と本]

20世紀初頭のニューヨーク。

貧しいタイピスト、ミス・リースンが部屋を探しにきます。

大家のパーカー夫人は、まず一階の二間続きの客間を見せますが、貧しい職業婦人であるミス・リースンはその家賃を払えません。

 

「もっと上の、もっと安い部屋をみせてください。」

 

二階、三階とあがっていくにつれ、パーカー夫人の機嫌は急降下、そして案内を放棄。
引き継いだ女中さんに、天井裏の穴倉に放り込まれます・・・。

「上に行くほど偉い」みたいな価値観が逆転しています。

エレベーターがないからですね。

 

それはさておき、この天井裏の穴倉にも、たった一つの利点がありました。

「小さな明かりとりの天窓のガラスごしに四角く無限の蒼空が見える」のです。

彼女はそこに見える、じっと動かない星をビリー・ジャクスンと名付けます。

 

ある日、彼女は天井裏のベッドで、栄養失調のため意識を失います。

その彼女を救ったのは・・・・。

という物語です。

 

12ページほどの短編ですが、さすがはO・ヘンリという名作です。

物語中盤で、すごく気に入っている部分があります。

ある夏の宵、パーカー夫人の家の間借人たちが、いつものように玄関の階段に腰かけていたとき、ミス・リースンは、天空を見あげて明るく笑いながら叫んだ。

「まあ、あそこにビリー・ジャクスンがいるわ!こんな低いところからでもみえるんだわ」

          大久保康夫 訳  新潮文庫 O・ヘンリ短編集(三)より

天然っぽいセリフのように聞こえますが、ちょっとわかります。

「何効果」と呼ぶのかわかりませんが、空が天窓の枠で縁取られることで、月や星が手の届きそうなほど近く感じるんです。

月食のときなど、角度によっては家の中で寝ころびながら見ることができて、なかなか乙なものです。

 

天窓は、雨仕舞に注意を払った設計・施工をすれば、何ものにも代えがたい恵みを生活にもたらしてくれます。

 

A House Is Not A Home  /  Burt Bacharach    [家と音楽]

ハル・デヴィッド / バート・バカラックの名曲ですね。

A chair is still a chair
Even when there's no one sitting there
But a chair is not a house
And a house is not a home
When there's no one there to hold you tight,
And no one there you can kiss good night.

 

A House Is Not A Home         Hal David /   Burt Bacharach

 

ハル・デヴィッドの美しい詞を、多くの方が美しい日本語で訳されてきました。

しかし、どの方もタイトルでもある、”a house is not a home”を上手く訳せず、悩まれているようです。

 

もちろん私など、手に負えるものではありません。

名詞は”house”と”home”のみ。

でも、訳しわけることができないんです。

あなたがいなければ、この家は単なる「建物」にすぎない、ということと理解しているのですが、これでは詞になりません・・・。

 

「家」は「家庭」ではない。

だいたい、ここに落ち着かざるを得ないようですが、「家庭」がどうしてもひっかかってしまいます。

「家庭」という日本語に染みついてしまった、何だか言葉にできない「嫌な」感じがぬぐえないのです。

 

鴨長明の方丈の庵も、私はhomeだと思っています。

一人の家も、二人の家も、三人の家もhomeです。

 

”a house is not a home”を、ストンと腹に落ちる美しい日本語で表現できて、なおかつそのhomeを図面に表現することができたのなら、私のような場末の文系建築士でも、何がしか成し遂げたことになるような気がしますが、果たしてそんな日が来るのでしょうか。

www.youtube.com

 

 

 

”友情と愛情の危ういバランス” それをおおらかに包む家  「あ・うん」(向田邦子)  [家と本]

つましい月給暮らしの水田仙吉と軍需景気で羽振りのいい中小企業の社長門倉修造との間の友情は、まるで神社の鳥居に並んだ一対の狛犬あ、うんのように親密なものであった。
太平洋戦争をひかえた世相を背景に男の熱い友情と親友の妻への密かな思慕が織りなす市井の家族の情景を鮮やかに描いた著者唯一の長篇小説。

          「あ・うん」(向田邦子 )文春文庫 裏表紙 内容紹介より

映画では、このキャストでしたね。

門倉修造(仙吉の親友) - 高倉健
水田仙吉(門倉の親友) - 板東英二
水田たみ(仙吉の妻 門倉がひそかに思いを寄せる) - 富司純子
水田さと子(娘) - 富田靖子


物語の舞台は、上京する仙吉家族のために門倉が手配した、芝白金三光町の借家です。
(芝白金三光町は、かつて実在した町名で、現在の港区高輪、港区白金、港区白金台あたりのようです。)

門倉は、畳、障子、風呂の煙突、風呂桶、流しの簀の子などを新しく替え、枕や寝間着を新調し、せっけんやトイレの紙まで準備して、さらに風呂の湯まで沸かして、親友家族の到着を待ちます。

そして、家族がついた時には本人はその場から立ち去っているという・・・。

そこがまた良いのです。

 

多くの大切な場面がこの家の中で展開します。

茶の間や二階の部屋、縁側、玄関、脱衣室・・・、それぞれの場所に深い印象が刻まれます。

特に、招集令状が届いた恋人を追って、さと子が「転がるようにかけ出してゆく」玄関のシーンは心に残ります。


おそらく当時のありふれた借家なんだと思いますが、この家がどっしりと構えていて、繊細な人間関係がうみだす涙と笑いを包み込んでいるようです。

ほんの少しでもバランスが崩れたら、すべてが崩壊してしまう。

三人の男女が危うい感情に揺れながら、必死に家庭や友情を守ろうとしている姿を、この家は暖かく見守りながら、家もまた育っていくように感じます。

余談ですが・・・。

大昔、就職先の新人研修の間、青山にある宿舎にひと月ほど滞在していました。

部屋の窓を開けると、目の前に「南青山第一マンションズ」がありました。

向田邦子さんがお住まいになっていたマンションです。

(建て替えの話を何かの記事で読んだような気がしますが、どうなったんでしたっけ・・・)

今風に言えばヴィンテージマンションとでもいうんでしょうが、新しいものが決して持てない、特別な雰囲気をまとっていました。

建築は、流れる時間の中でいろいろな物語を吸収しながら、生きて育っていくんだなとあらためて思います。

「ずっと生きている」と思うことに・・・

ヒーローが一人また一人と旅立っていきます。

こどもの頃からコピーしまくり、レコードを聴きまくり、

自分も年齢を重ねてからは、そのアグレッシブさに驚嘆しつつ、

ずっと道標のような存在でした。

 

ようやく少し落ち着いてきましたが、

エディの他界もまだ少し引きずっていたりして、

世代的にこういうことは続くでしょうから、

これでは身が持たないかなと・・・。

 

でも、一生関わることなど叶わない遠い人であるなら、

ずっと生きているのと同じことなんじゃないかなと思えてきて、

そうしたら少し気持ちが楽になりました。

 

その音が指先に、耳に染み込んでいます。

 

魂が不滅であるなら、再び道標として、共に歩まれんことを。

 

縄文の家・平安の家 中学生の歴史観が雑すぎて・・・

娘の仲の良い友達は、時々我が家のことを「縄文」とか「平安」とか呼ぶそうです・・・。

古風な感じがするから」だそうです。

もちろん冗談で、娘もそれを楽しんでいるようですが。

それにしても、歴史観」が雑すぎませんか(笑)。

おそらく明治あたりより前は、全部大昔みたいな。

そういえば、歴史のテストで「〇〇の乱」をきかれたときに、かなりの生徒がどんな時代であっても「応仁の乱」と書くそうです・・・。

昔の「乱」は全部「応仁の乱です(笑)。

大丈夫か!中学生。

 

本当は、こっそりモダンデザインのボキャブラリーを随所に織り込んでいるのですが、そんなことを中学生に言ってもわかってもらえません・・・。

せめて「昭和」ぐらいにしてほしいです。

雨で木建が潤って   [家と言葉]

木建(もくだて)
単なる「木製建具」の略です・・・。

 

庭がカッサカサになっていたので、久しぶりの雨でほっとしました。

木々も潤って喜んでいるようです。

この湿度で、玄関の建具も一時的に息を吹き返して、元気になりました。

というのも、我が家の玄関は無垢の木の引き戸なので、冬になると乾燥して、盛大に反るのです。

数年たてば落ち着くかなと思って様子見をしていたのですが、季節が巡るたび反ったり、戻ったりを繰り返すようです・・・。

木は生きていますね。

素材はナラ、見込み40ミリ、幅75ミリの框の間に6ミリの乳白合わせガラスを落とし込んでいます。

 

反って何が困るかというと、鍵と鍵穴の位置がずれてしまい、施錠しにくくなってしまうんです・・・。

中から施錠する場合、思いっきり押して、外から施錠する場合、思いっきり引っ張って強引にかけます。

逆に強力にロックされて良いのではと思ってみたり・・・(無理やり)。

外出時どうしてもかからないときは、誰かひとり留守番です(笑)。

 

今日の建具はスッとまっすぐに立っていて、カチャっという小気味よい音をたてて鍵がかかりました!。

当たり前のことに大喜びしています(笑)。

AIの指紋認証や顔認証で施錠できる時代に、いったい私たちは何をやっているんだろうと思ったりもしますが、これはこれで何だか楽しい気もします。

 

木製建具をご検討の方の参考になるかはわかりませんが、その辺りの(多少の!)不便さを受け入れられるようであれば、それを補って余りある豊かさを得られるのではないかと思います。(1:9でデメリット:メリットです。)

木の家の生活は大変ですが、それなりに楽しんでいます。